山頂部の四ツ門から北側は、山頂部で最も大きな削平地である旧三ノ丸の跡である。その北端にはかつて靱櫓(ゆきやぐら)と呼ばれた二重櫓が築かれていた。靱とは、武士が矢を詰めて背負った籠のことで、往時はそうした道具類が収納されていたのであろう。
「正保の城絵図」に記載がないことから、築造時期は1663年(寛文3年)の松平直矩による普請時ではないかと見られる。礎石は失われているものの、櫓台の石垣そのものはよく残っており、おまかにその規模を計測したところ、南北8mに東西14m、高さは3.5mほどであった。長辺と短辺の長さの差が大きいことや、古絵図の分析等から、かつては小規模な多聞櫓が塁線沿いに接続していたことが判明する。
櫓台を大きく塁線から突出させたことと合わせ、横矢による射撃効果の発揮を意図していたのであろう。
現在の靱櫓位置には何も描かれず、代わりに後代の絵図には描かれていない、四ツ門と接続する二重櫓が描かれている。別の建物を描いたのか靱櫓の位置を誤認したのかは不明[国立公文書館蔵]
近世の石垣が目を引く当遺構だが、実はその周辺には、中世期「本庄城」の遺構もかなり良く残っている。
まず注目すべきは、現在の三ノ丸北側の塁線下6、7mに広がる帯曲輪である。15m×80mほどもある比較的大規模な曲輪で、江戸時代の絵図にその存在が描かれていないことから、中世期のものと判明する。攻城の足がかりにも使われかねないこのような場所を、なぜ破壊しなかったのか疑問であるが、ひょっとすると、三ノ丸の塁線直下に身を隠す場所のない削平地を残しておくことで、キルゾーンとして活用することを狙ったのかもしれない。
中世期遺構のもう一つは、帯曲輪の両端から伸びる大規模な2本の竪堀である。両方とも幅3~4mに深さ2~3mほどを測り、斜面を100mほど下って山麓に達している。以前「中世期遺構群」で紹介した本丸東側斜面の竪堀と構築方法、規模ともに酷似しており、同時代の遺構と見てまず間違いないだろう。
(初稿:2004.03.16/2稿:2006.10.24/3稿:2017.07.23)
靱櫓の位置する近世三ノ丸の北側には、中世期の帯曲輪、2本の竪堀を確認できる。
斜面を一直線に下っていく竪堀。周囲の状況を見る限り中世期の築造に見えるのだが…。
山麓居館を囲む土塁の両端から、山腹を駆け上がる柵のようなものが伸びている[国立公文書館蔵]。
明治元年の居館付近。画面真ん中あたりの山腹に竪堀らしき溝が見える…。