第二の天守があった?(1)
2つの三重櫓を有した村上城
近世城郭には、防御の要として数多くの櫓が築かれていた。その多くは2重、もしくは単層の櫓であるが、5重天守を有する大城郭(江戸城、徳川大阪城、熊本城など)では、他城の天守並みの3重櫓が築かれるケースも見られる。もちろん、天守が3重止まりの城で3重櫓が築かれるケースも皆無ではないが、これらの場合は、天守よりもかなり規模を縮小した三重櫓を建てるのが一般的だ(彦根城、弘前城など)。いずれにせよ、天守以外に三重櫓を持った城はかなりレアな上、「天守>他の櫓」という序列を崩さない範囲で、三重櫓を建てていたわけだ。
ところが、全国的に見れば中規模程度にも関わらず、村上城には天守以外の三重櫓が築城当初から存在していた。しかも、その大きさたるや、一階平面で4間4尺×7間半に達し、天守の5間×7間とほぼ同サイズであった。「天守>他の櫓」という序列を崩してまでこのような櫓が築かれた背景には、村上城に特有の何らかの事情があったに違いない。
というわけで今回は、古図、古記録等を参考に三重櫓のCG復元を試みるとともに、なぜ村上城にこのような櫓が必要とされたのかを考察していきたい。
■天守と三重櫓
三重櫓とはいっても天守とは意匠や大きさに差をつけるのが一般的。上は弘前城のケースだが、やはり三重櫓は天守に比べかなり地味だ。