ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
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「下渡城」3D再現!

「下渡城」3D再現!

ほぼ資料が存在しない下渡城

下渡城跡の遠望

村上城の北、三面川を挟んで約2.3kmの地点に位置する下渡山(標高237m)には、中世城郭「下渡城(下渡嶋城)」の跡が残っています。かつては村上城(本庄城)の支城として機能し、永禄の本庄繁長の乱では、上杉方との争奪戦の舞台にもなりました。現存遺構の詳細については「下渡城跡」で解説していますが、本格的な戦闘用の城…というよりは、少数兵力が駐屯する、物見のための城だったようです。

さて気になるのは、この城の姿がどのようであったのか、という点です。下渡城に限らず、中世城郭の外観を記した絵画資料は非常に少なく、文書記録も限られたものしかありません。その上、小さな城ですから、発掘調査も行われておらず、その姿はほとんど謎といってもいいでしょう。いわゆる、学術的な「復元」の可能性は、ほぼ手詰まりの状況です。

そこで今回は、シロートの特権(!)を発動して、想像…というか、ほぼ妄想レベルの精度で下渡城の主要部を3D化してみようと思います。学術的な価値はビタ一文ありませんが、「中世城郭ってこんな感じだったんだ~」的なノリでお付き合いいただければ幸いです。

現存遺構から推定できること

発掘調査が行われていない下渡城ですが、地表面観察の結果から、以下の概念図のような遺構が把握できます。山頂に東西方向に3つの曲輪を1列に並べ、その周囲を狭い帯曲輪が取り巻くという、ごくシンプルな構造ですね。

主郭位置:曲輪の位置・規模から主郭と推定されるのは1郭。なんらかの建造物があったとすればおそらく此処。わずかに地形が盛り上がっている中央部には、食料や弾薬の貯蔵施設があったかもしれません。

2,3郭の評価:1郭との相対的な位置関係から、主郭に対する前衛的な空間として位置付けることができそうです。特に3郭は建物が建つような広さがなく、桝形的な空間として利用されていたかも。

明瞭な虎口がない=梯子で連絡:明確な虎口遺構が見られないことから、曲輪間の連絡は本来梯子で成されていたと推測します。現在は登山道が各曲輪の切岸面をえぐり取るようにしてつけられていますが、防御意図を感じさせないルート取り&強引な造作からして、後代のものと判断。

下渡城の現存遺構概念図

どんな建物が建っていたのか?

おおざっぱな構造に続いて、かつての建築物についても推測してみましょう。「瀬波郡絵図」等の絵画資料、各地で復元された中世城郭の事例から、ここでは以下のような構造物があったと推定してみます。

小屋:一定期間の駐屯を可能にするため、本格的な櫓とまではいかなくとも、一定の耐久力がある建物はあっただろう。各地の復元建造物を参考に、掘建柱に土壁、板葺き屋根のシンプルな建物とした。また、臨時駐屯や資材の保管用に、茅葺のテキトーな小屋類も複数棟あったと推定。

井楼:物見のための城であるから、この手の建造物もあったのではなかろうか。ここでは1間四方の小屋を高さ2間半の柱の上に乗せた構造物と仮定

城門:城の規模からすると、シンプルな冠木門くらいだっただろう。先述のように、曲輪の出入りは梯子を使ったとした。

:「瀬波郡絵図」により、本城の村上城でさえ塀の使用はごく一部で、曲輪外周の多くが柵であったことがわかる。よってこの城の場合も曲輪外周は柵がメイン。要所のみ板壁を後補してあったと推定した。

阻塞:普請の際に出た木の根や端材を組んで、逆茂木などの工作粒が置かれていただろう。基本的には曲輪外延部と、門付近の横移動を妨害する位置に置かれていたはずだ。

推定される中世の下渡城にあった構造物

推定3DCG再現図

上記のような想定をもとに、下渡城を南西方向から望んだ状況を示したのが以下の3DCG図です。「お城」と言うと、巨大な石垣や白亜の天守を備えた「近世城郭」を想像する方も多いと思いますが、戦国の世で実戦に供されたのは、こうした野戦築城っぽい姿の「中世城郭」でした。

近年の城巡りブームで、ようやくこの手の土の城にも注目が集まるようになりましたが、まともな調査が行われているのはごく少数。数万もの城が手つかずのままです。各地の名もなき城に、いつの日か光があたる日が来ることを期待します。

(初稿:2017.10.31)

下渡城の推定3DCG再現図 下渡城の推定3DCG再現図・解説コメント入り

あくまで「妄想」レベルで作成したものであるが、実際にはもっと簡易なものだったかもしれない。それにしても、こういった城が全国に数万箇所もあるというのは本当に驚異的なことだと思う。