新資料「村上住居繪図」とは!?
オークションに未知の御殿絵図が!
戊辰の戦火のため、村上城の建築物に関する資料は極めて限られます。特に御殿の平面図に関しては、「内藤侯居城全圖」と「越後村上城居城分間図」のわずか2枚しか現存しないハズでしたが、先日ネットを眺めていたところ、なんだか見覚えのある建物の古図が……ぬぁんと! 村上城の御殿絵図がオークションにかけられているではありませんか!!!
まるで絶滅種を再発見したかのような衝撃を覚えた筆者。早速、村上市&郷土資料館に連絡を入れたものの、どちらも年度途中での予算確保は難しいとのこと。…我がジモトの公的セクターには絵図1枚をなんとかする余力も残っとらんのかorz とはいえ、このまま放置→散逸するのを見過ごすわけにもいかず、筆者私物として入手しました。
今回はこの「村上住居繪図」について、ざっくり解説してみたいと思います。
既知の2枚の絵図との関係は!?
資料の来歴をまずは記したいと思います。福井県の某豪商の蔵出し品として出品されていた本絵図ですが、もともとは、享保期に村上を領し、その後、越前鯖江に転封となった間部家の家老・小堀家の所蔵品だったとのことです。間部家が村上にいた期間はわずか2年しかありませんから、本絵図の成立年代は1718-1720年前後の可能性が濃厚です。
次に、既知の2つの御殿絵図と比較すると、1720-1747年の間の成立と見られる「越後村上城居城分間図」(※1)と建物配置がほぼ同一であることがわかります。これに対し、1747-1778年の間と推定される「内藤侯居城図」(※2)は、本図と比較すると全般に建物が少なめです。特に藩主の私的な居住スペースである奥向きの建物の多くが失われており、御殿が縮小局面に入ってから作成されたものであることが推察されます。
開府当初からのおよそ100年、村上城には10万石や15万石の大名が入封し、御殿の規模はその都度拡張されていました。しかし、1710年代以降は当初の1/3に過ぎない5万石程度の大名が入り、御殿の維持には相当の苦労があったことが、各種文書から伺われます。建物の撤去は、こうした藩の厳しい財政事情を反映したものでしょう。御殿にまつわる諸記録と3枚の絵図の成立年代を対応させると、以下の年表のように整理できます。
年 | 城主 | 出来事 |
---|---|---|
1598-1618年頃 | 村上頼勝 | 9万石。中世城郭「本庄城」の根小屋を、近世的「御殿」に改修しはじめる。 「臥牛山城を造功し 其身は麓の塞に居り」 |
1618~42年頃 | 堀直竒 | 10万石。特に表向きの建物の平面は古式なので、この頃までに主要殿舎は揃ったと考えられる。 「御本城、二の丸、三の丸造、但又石垣・櫓・塀門・堀・百閒蔵並び侍屋敷数多出来」 |
1649~67年 | 松平直矩 | 15万石。城の大改修と合わせ、御殿の規模を拡大する。 「寛文元年丑年より同五年巳年まで 天守本丸小書院造営 二ノ御丸御居宅御本城リ袖スリ御塀、折廻四拾七間三尺 大和守様御代ニ出来申候」 |
1667~1709年 | 榊原氏、本田氏 | 15万石。石高の変化がないことから、御殿の構成はさほど変わらなかったとみられる。 |
1710~1717年 | 松平輝貞 | 7.2万石。御殿の増改築記録ははっきりしないが、後任の間部家の記録を見る限り、管理はあまり行き届かなかった模様。 「本丸櫓橋修造」(刎橋門のことか?) |
1718-20年 | 間部詮房 | 5万石。応急処置を施しつつ、なんとか15万石相当の御殿の規模を保つ。 「二ノ丸御殿の壁剥落、屋根も水腐れのため軒先が落ちる」 「村上住居繪図」この頃に成立? |
1720年 | 内藤弌信 | 5万石。以後幕末までの約150年を内藤氏が統治。
「越後村上城居城分間図」この頃成立? |
1747年 | 内藤信興 | 「城内地震の間を壊ち跡は太守学問所に相成」 「寛保年中城内地震の間を壊つ」 「内藤侯居城全図」この頃成立? |
1778年 | 内藤信凭 | 「安永七年戌年三月光徳寺より出火にて 御居城三重櫓・月見櫓・刎橋御門三ケ所類焼」 |
1830 -44年 |
内藤信親 | 寺町・長法寺の本堂建築に際し、居館を解体・再建した際の部材の払い下げを受けたとの言い伝えあり。 |
1868年 | 内藤信民 | 戊辰戦争に際し自焼 |
絵図の描写・制作目的について
「村上住居繪図」は、外袋+本図+控えから成り、2枚の絵図は約99×133cmと、かなり大きなサイズです。描写はかなり精密で、試しに、実測に基づいて制作されたと思われる「越後村上城居城分間図」とPhotoshop上で重ね表示したところ、若干のズレはあったものの、建物相互の位置関係や相対的な大きさの比率はよく一致します。直接的なトレース関係があるかどうかははっきりしませんが、かなりの精度が出ていると見てよさそうです。(なお「内藤侯居城全圖」についても同様の作業を行ったところ、外周の堀・土塁ラインから七曲リ道の形状まで「越後村上城居城分間図」とほとんどズレなし。両絵図の強い相互関係が示唆される)
一方、既知の絵図との相違点として、御殿周囲の土塁や堀の描写を欠くこと、方位以外に一切の文字情報がない点が挙げられます。既知の2枚は外周の堀・土塁はもちろん、各部屋の名称から竈位置まで細かく記していますが、本図にはそうした文字情報が一切ありません。なんというか、初見時にはえらく「あっさりした」印象を持ちました。
以下は妄想レベルの話になりますが、こういった描写の特徴から考えるに、本絵図は殿舎の管理用絵図の「原図」ないしは「元図」のようなものだったのではないでしょうか? 藩の公式行事における家臣の席次、建物の損傷個所の洗い出し、あるいは修理指示など、御殿の絵図が必要とされるシーンは藩政を行う中で結構あったハズです。その度に図面をイチから作り直すのは大変ですから、それらのベースになる図面として、まるで白地図のような「村上住居繪図」が作られたのではないでしょうか? 精密な描写の殿舎部分に比して、周囲の櫓の描写やサイズがかなりアバウトなのも、なんだかその傍証のような気がしてなりません。
なお、本図・控え図とも建物部分は薄い赤色で塗りつぶされています。屋根材や床材の差異を表現したものかとも思いましたが、地面と建物を描き分ける以上の意味合いは特になさそうです。
本格的な分析に期待
というわけで、新発見資料「村上住居繪図」の特徴をまとめてみました。単体では情報量に限りがある本絵図ですが、他の絵図と合わせて解釈することで、御殿の姿をより詳細に推定できるのではないかと思います。また、間部氏時代に作成された可能性が高い本絵図により、御殿の各建物の改廃時期について、より確度の高い推定が可能になると思われます。
目下、筆者の私物となっている本絵図ですが、広く研究に役立てて頂きたいので、保存状態が良いほうの1枚につき高解像度スキャン画像を「ダウンロード」コーナーに載せておきます。また、安定した環境で保管すべく、オリジナルは村上市に寄託することにしました。明治維新から150年が過ぎ、時代は令和となりました。「新資料の発見はまずないだろう」といった諦観をどこか持っていた筆者ですが、今回の件でちょっと希望が持てました。ともあれ、専門家による分析が進み、村上城御殿の真の姿が解明される日が来ることを期待しています。
(初稿:2020.01.26/2稿:2020.02.07/3稿:2020.02.16/最終更新:2021年09月17日)