「越後村上城居城分間図」について
「内藤侯居城全圖」より古い図面
戊辰戦争の折、自焼してしまったこともあり、村上城の御殿に関する資料は断片的なものに限られます。特に建物の平面図に関しては、江戸後期の状況を記した「内藤侯居城全圖(※)」が唯一の資料だと長らく思っていたのですが、近年、市内で個人蔵として保管されていた「越後村上城居城分間図」という図面の存在を知りました。郷土資料館で写しを拝見する機会を得られたので、簡単に内容をまとめておきます。
高い精度
まず、基本的な精度そのものに注目です。「分間図」と銘打っていることから、オリジナルは1間四方の方眼をベースに作図されたと推定されます。本図は実測値をもとに作成されたと見て良いでしょう。
また、柱位置をきちんと記してあることもポイントです。一見、些細なことに思われるかもしれませんが、柱位置が確定できるかどうかは、建物の構造を推定する上で重要なポイントになります。例えば、城内最大の建物であった「大広間」と、その隣にあった「大書院」を比べてみましょう。一般的な御殿建築であれば、柱が密に立つ(=間仕切り位置)のは、廊下と縁側の間です。左手の大書院のほうはそのような柱配置になっています。しかし、右手の大広間では縁側の外に柱が密に建っており、廊下と縁側の間にはほとんど柱がありません。おそらく、大広間の間仕切りは縁側の外周に沿って立てられ、廊下と縁側の境には戸はなく、長大スパンの梁をわたした開放的なつくりだったはずです。
こうした構造は聚楽第や熊本城大広間など、かなり古風な殿舎に見られる特徴です。村上城大広間の建築年代も、江戸のごく初期(村上氏・堀氏)あたりに遡る可能性が高いのではないでしょうか。
本絵図の成立時期と、建物の改廃
本図には江戸後期に描かれた「内藤侯居城全圖」には見られない建物がいくつも描かれています。実は、村上城の御殿には何度も増改築を繰り返した記録が残されており、これらとの照合から、少なくとも内藤侯居城全圖が描かれるよりも前(おそらく1747年以前)の状況を記したものと推察されます。
さらに、本図の左下に記された「小田●兵衛」という名に着目すると、これは内藤家で代々大工頭を務めた小田家の人物に比定できます。特に「小田作兵衛」の名であれば、嘉永2(1849)年に建てられた藤基神社棟札のほか、寛政4(1792)年の羽黒神社棟札にも確認でき(『江見啓斎翁日誌』文政元年10月2日より)小田家の通し名であったことがわかります。いずれかの時代の「作兵衛」が、本絵図を作成したと見れば、成立年代は、内藤家が村上に転封してきた1720年よりは遡らないと考えられます。
年 | 城主 | 出来事 |
---|---|---|
1598-1618年頃 | 村上頼勝 | 9万石。中世城郭「本庄城」の根小屋を、近世的「御殿」に改修しはじめる。 「臥牛山城を造功し 其身は麓の塞に居り」 |
1618~42年頃 | 堀直竒 | 10万石。特に表向きの建物の平面は古式なので、この頃までに主要殿舎は揃ったと考えられる。 「御本城、二の丸、三の丸造、但又石垣・櫓・塀門・堀・百閒蔵並び侍屋敷数多出来」 |
1649~67年 | 松平直矩 | 15万石。城の大改修と合わせ、御殿の規模を拡大する。 「寛文元年丑年より同五年巳年まで 天守本丸小書院造営 二ノ御丸御居宅御本城リ袖スリ御塀、折廻四拾七間三尺 大和守様御代ニ出来申候」 |
1667~1704年 | 榊原氏 | 15万石。 「式部様御代 二の丸御殿 元禄十丑春より普請始る」 |
1704~1709年 | 本多氏 | 15万石→5万石。改築記録不明。ただし、大減封直後に転封されたため目立った工事は行わなかったものと思われる。 |
1710~1717年 | 松平輝貞 | 7.2万石。御殿の増改築記録ははっきりしないが、後任の間部家の記録を見る限り、管理はあまり行き届かなかった模様。 「本丸櫓橋修造」(刎橋門のことか?) |
1717-20年 | 間部詮房 | 5万石。応急処置を施しつつ、なんとか15万石相当の御殿の規模を保つ。 「二ノ丸御殿の壁剥落、屋根も水腐れのため軒先が落ちる」 |
1720年 | 内藤弌信 | 5万石。以後幕末までの約150年を内藤氏が統治。
「越後村上城居城分間図」この頃成立? |
1747年 | 内藤信興 | 「城内地震の間を壊ち跡は太守学問所に相成」 「寛保年中城内地震の間を壊つ」 「内藤侯居城全図」この頃成立? |
1778年 | 内藤信凭 | 「安永七年戌年三月光徳寺より出火にて 御居城三重櫓・月見櫓・刎橋御門三ケ所類焼」 |
1830 -44年 |
内藤信親 | 寺町・長法寺の本堂建築に際し、居館を解体・再建した際の部材の払い下げを受けたとの言い伝えあり。 |
1868年 | 内藤信民 | 戊辰戦争に際し自焼 |
…といわけで3D化してみた
上記のような考察をベースに、最盛期の村上城御殿を3DCGで組み直したのが以下の図です。建物の改廃状況を色付け表示してみましたが、藩の経済規模の縮小に合わせ、巨大な御殿が次第に縮小していった様子が見てとれます。今回3D化した御殿の特徴その他の詳細は「御殿徹底研究」に詳しくまとめています。お時間のある方はぜひ♪
※本図の掲載にあたっては、村上市郷土資料館の桑原様、板垣様に大変お世話になりました。また、掲載をご快諾下さった、所有者の大瀧様に改めてお礼申し上げます。
(初稿:2017_12_30/最終原稿:2021.09.17)