ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
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3DCGで見る町人地の景観変遷(1)

3DCGで見る町人地の景観変遷

村上の町人地の景観変遷を追う

村上城の築城以来、400年を超える歴史を刻んできた村上の城下町。中でも旧町人地については、20年ほど前から「町屋の人形さま巡り」や「屏風祭り」など、その歴史を生かしたイベントが実施されるようになり、民間主導による修景なども動き出した。2013年には「村上市景観計画」、2016年には「歴史的風致維持向上計画」が策定され、今後は行政施策としての景観形成も本格化していくことが予想される。ひょっとすると、村上の町人地は景観がガラっと変わる転換点にあるのかもしれない!?

というわけで今回は、3DCGによる「仮想村上(!)」を構築し、長年にわたる町人地の街並みの変化や修景後の可能性についてシミュレートしてみたい。想定年代は藩政期から現代までの約150年に設定。同一アングルから建築様式や工作物の変化を追い続けることで、各時代における「典型的な景観」をわかりやすく提示することを試みる。一応、どっかのT字路を想定してはいるが、現実にこのような場所や建物が存在するわけではないことを最初にお断りしておく。

江戸末期(1860年代)

仮想村上町 江戸時代

村上がリアルに「城下町」であった幕末頃の様子をまずは見てみよう。残念ながら古写真が残らないので、建築意匠の考察にあたっては「堀田金五兵衛図絵」に多くを負った。

まず特徴的なのは、ほぼすべての建物が平入・2階建てで道路沿いに連なり、軒のラインも総じて低く揃っている点である。藩による建築制限を受けたためだが、現存する江戸時代の建築物も、軸部はこのような構造を残していることが多い。また、屋根材に着目してみると、ほとんどの建物が木端葺き・石置き屋根である。寒冷地の村上では冬季の凍結膨張の害があるため、耐寒性の瓦が普及するまで多くの建物が木端葺きであった。京町家系列の構造を持ちつつも、雪国の風土に応じた頑強さや素朴な外構を備えていたのが大まかに見た村上町屋の特徴といえそうだ。多少の意匠上の差はあれど、このような様式の建物が隙間なく連なっているのが、町人地の原風景であった。

なお、正面に配したニセ臥牛山(?)に城郭建築を乗っけておいたが、現実世界の村上城天守は寛文7年(1667年)に落雷焼失している。幕末時には天守の右下に見える乾櫓がランドマークになっていたハズである。

明治末~昭和初期(1900~30年代)

仮想村上町 明治末~昭和初期

維新から半世紀余り。越後北辺にも文明開化の波が及び、洋風意匠の建築物や電灯が普及し始めた時期にあたる。

一番手前の建物が洋風意匠を取り入れて更新されてはいるが「平入・2階建て」構造を踏襲しているので、意外と街並みには溶け込んでいる。また、奥手のほうには若干手の込んだカンバン建築が建てられている。江戸時代には明らかに存在しなかったタイプの建物だが、壁面位置が周囲と揃っているため街並みとの違和感はそれほど感じない。「良質な洋風建築は伝統的な日本の街並みにもマッチする」とはよく言われるが、この時期は官公庁や銀行などが(疑)洋風建築でつくられるケースがままあった。現存例は少ないが、開運堂ベーカリー、旧新潟貯蓄銀行、旧村上高校門舎などに往時の面影がうかがわれる。

もちろん、江戸時代から引き継がれた建物にも、文明開化の影響は及んでいる。屋根材の変更や下屋の切り詰め、カンバンの大型化、障子戸のガラス戸への変更…といった改造が主なものだが、基本的には江戸期+αくらいの改装であり、見た目の印象自体が変わるような改造は少ない。お年寄りの話を聞くと、戦後しばらくまでは、このような景観と大差がなかったようである。

昭和中期(1960-70年代)

仮想村上町 昭和40年代

高度成長期を経た時代である。このあたりから新建材やアスファルト舗装が普及し、街並みが急激にカラフルになった。

明治期に建てられた一番手前の洋風町屋(?)は新建材で改造されて当初の意匠を失った。前から3件目の町屋は2階までサイディングで覆われ、下屋も完全に撤去。正面からは町屋と判然としない感じになっている(こういった「一見、町家には見えないが実は江戸時代製」みたいな建物は現在でも結構残っている)。また、比較的原型をとどめている建物にもガラスサッシや波トタンなどの手が入り、公共インフラにおいてもプラスティッキーな街灯やら電線などが増え、かなり雑然とした景観になってきている。ちなみに、現実世界で大町商店街の下屋が撤去され、アーケード化されたのはちょうどこの頃である(1968年)。

だが、この雑然とした景観の中にも、筆者は割と強烈に「城下町らしさ」を感じてしまう。建物個々の効果というよりは突き当りのT字路と、そこに建つ在来型町屋の威力であろう。村上の場合、高度成長期の開発圧は、主として中心市街地ではなく郊外へと向かった。そのため、江戸期の都市骨格が辛うじてこの頃までは維持されていたわけだ。筆者が幼少時に見た風景は、大体こんなもんだったように思う。

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