出櫓復元
■DATA
建築:1620年頃/1663年
破却:1875年
規模:2間5尺×3間2尺(出櫓)
1丈×2間2尺(御多門)
建築:1620年頃/1663年
破却:1875年
規模:2間5尺×3間2尺(出櫓)
1丈×2間2尺(御多門)
村上城を象徴するような遺構である出櫓跡の石垣上には、正徳年間の実測記録「村上御城廓」によると、平面規模が2間5尺×3間2尺の櫓が上げられていた。二重櫓か平櫓かは資料によって分かれるところであるが、ここでは『お城山とその周辺整備基本計画』所収の文化財建造物保存技術協会の復元案に従って平櫓とした(他の櫓の形状を勘案すれば、1、2階が同大の重箱櫓だった可能性も高いと思う。村上市「史跡村上城跡出櫓台整備報告書」2018,03 においては、「重層だった蓋然性が高い」としている)。また、画面上では見えていないが、同じく「村上御城廓」からは、小規模な多聞櫓が南側に接続していたことが判明する。 こちらの規模は、1間半×2間2尺で、近年の石垣修理に伴う発掘調査で記録通りの規模が確認されている。
高さ約5メートルの石垣の上に、さらに櫓が乗ったときの圧迫感はかなりのものだ。二ノ丸全域を掌握する要の櫓であったことが伝わってくる。
こちらでは平櫓案を採用している(ふるさとの日推進委員会『広告』より)
「遺構概況」の出櫓跡の頁でも述べたように、出櫓の役割は、本丸へ向かう敵兵に側面攻撃をかけることに尽きる。通路右手に延々と石垣を這わせたことはその証左であるが、周辺の縄張りを詳細に分析すると、さらに巧妙な仕掛けが見えてくる。
まず注目されるのは、出櫓直下に位置する「黒門」との位置関係である。一見すると、平入の脆弱な構造のようにも思えるが、門手前の空間は、出櫓からの側射にさらされる格好の横矢掛かりとなっている。門の前でモタモタしていては、格好の標的になってしまったことだろう。
さらに、黒門突破後の通路の形状も重要なポイントである。右図を見てもわかるように、本丸へ向かう2本の通路(「上通り道」「下通り道」)は、それぞれ5、6mの幅しかない上に、通路の側面を、石垣や切岸によって閉塞されている。そのため、侵入した敵兵は、一列縦隊のまま、絶えず側面からの攻撃にさらされざるを得ない。至近距離から矢玉を浴びせられては、いかに人数をそろえても正面突破は難しかったはずだ。
出櫓・黒門から本丸に到る狭い通路は、敵兵を誘い込み、殲滅するための「キル・ゾーン(Kill-Zone)」だったわけだ。南北に細長い臥牛山の地形をフルに活用した巧みな縄張りと評価できよう。
(初稿:2003.11.21/2稿:2004.04.29/3稿:2006.01.08/4稿:2006.09.12/5稿:2017.07.23/6稿:2018.04.17/7稿:2018.06.23/:2018.10.25/最終更新:2019年12月21日)
出櫓脇を通過する2本の城道は「キル・ゾーン」として設計されていた。
黒門と出櫓はほぼ同位置に描かれている。(国立公文書館所蔵)