出櫓跡
■DATA
残存物:石垣
残存度:★★★★★
藪化度:★
残存物:石垣
残存度:★★★★★
藪化度:★
御鐘門を過ぎると、曲輪は二ノ丸(上通り道)となる。本丸に向けてしばらく平坦面が続くが、やがて進行方向右手の土壇上に、印象的な高石垣がせり出してくる。この石垣上に位置していたのが、本丸防備の要とも言える出櫓である。
城絵図をあたると、「正保の城絵図」段階から存在しているかのようにも見えるが、村上市のオフィシャル見解は、石積み技法や発掘調査の知見を踏まえ、松平直矩の大修築が行われた1663年以降に築かれたとの立場である。(※)
さて、問題はこの櫓の機能であるが、本丸へ向かう敵兵に対し、横矢をかけることを狙った縄張りであることは明白である。詳しくは右の3D図を見て欲しいが、出櫓脇を通過して本丸に向かう「二ノ丸上通り道」「下通り道」の2つの通路は4、5メートルの幅しかない上に、向かって左側は切岸、右側は石垣によって閉塞されている。よって、敵兵は逃げ場のないまま、一列縦隊での通過を余儀なくされる。そんな通路が本丸直下まで、延々50メートルあまりも続くのだ。建物はなくとも、かつてのキルゾーンの圧迫感は十分に感じることができるだろう。
側射効果を生かすため、二の丸を狭く、長い通路になるように縄張りしたことがわかる。動画でご覧になりたい方は「電影村上城」をどうぞ!
(※)村上市教育委員会『村上市埋蔵文化財調査報告書第10集 史跡村上城跡出櫓台整備報告書』(2018.03)
現在の出櫓石垣は、2004年からスタートした石垣修復工事によって、本来の姿を取り戻したものである。修復前の石垣は右の写真のような状況であったのだが、実はこの状況、かなり破損が進んだ姿であったことが、修復工事によって判明した。
破損状況を下の図(※1)に示した。実は、修復前の旧石垣はかなりの箇所で、天端石が失われた状態だったのである。特に櫓の基壇部分については、本来、周囲よりもさらにもう一段高くなっているべきところが、すっかりフラットになっていたことが判明。積み直し工事によって本来の高さに復された。他の櫓についても同様の施工がされていたのかと思うと興味深い。
また、測量図を見ると、石垣の目地に不整合な箇所がいくつもあることがわかる。これらは元々の積み方が雑だったというよりは、昭和46、47、56年に行われた積み直し(※2)の時点で生じたものと思われる。今回の修復にあたってはこれらの不整合個所の復旧も合わせて実施され、石材の折損が深刻な箇所については、材質が旧材に近い、山形県最上町産「富沢石」を使用して修復されている。
修復工事直前の2003年に撮影。この姿に長らくなじみがあったのだが、本来あった櫓台の石垣上端部が失われ、フラットな形状になっていたことが判明した。
村上市教育委員会生涯学習課の配布資料「お城山石垣修復工事見学会」(2005.10.16)所収の図に加筆。
「史跡村上城跡保存整備計画 資料編」(1998)P.49の図による。特に昭和46年には、大雨によって石垣が崩壊したらしい。国指定史跡となる30年も前のことであり、復旧工事の方法もアバウトであったのだろう…。
発掘調査の結果でもう一つ注目すべきは、石垣に沿って用途不明のピットが計7か所検出されていることである。いずれも地山の岩盤層をノミで掘るという手の込んだ細工であり、上端直径は大きいもので1m、小さいもので50cm。深さは最大で1.35mに達している。掘建柱状の構造物と関連する遺構ではあるのだろうが、村上市の調査報告では「建物を復元できるような規則性は感じられない」(※3)とし、構築年代については、ピットを埋めた上に多門櫓の踏石が据えられていることから、出櫓台構築以前のものと推測している。
個人的には、出櫓の建物とは被らない、西側の小さなピットについては、塀の控え柱の痕跡である可能性を考慮すべきだと思うのだが、現在は遺構保護のために覆土されてしまったので、これ以上の考察は難しい。将来の新資料の発見が期待される。
(初稿:2003.11.21/2稿:2005.05.06/3稿:2005:11.25/4稿:2007.02.05/5稿:2017.07.23/最終更新:2017年10月24日)
村上市教育委員会「史跡村上城跡出櫓台 リーフレット」(2016)より。なお、下に示した図も同資料に収録のもの。
2003-15年にかけて実施された発掘調査で、出櫓・多聞に付随する雨落溝、入口と思しき踏石などのほか、用途不明のピットが7か所検出された。わざわざ硬い岩盤をノミ加工で掘っていることから、ゴミ穴の類というよりは柱穴関連だとは思われる。この発掘により、正徳元年の実測記録『村上御城郭』の信頼性がほぼ証明されたのも、個人的には非常に意味があると思う。
修復工事に伴って新材が補填された箇所。ぉおおお。真っ白ぢゃないか。違和感ありまくりだが、実はこれ、復元根拠が足りないので「当座こうしておいた箇所」であることを明示的に示すための措置。
この部分の段差処理は、かなり強引であり、本来はもうちょっと違った構造であった可能性が高い。あくまでも土止の臨時措置、高さを稼いだ要因として、黒門との関連が推察される。
高低差を稼ぎつつ、側射を狙った細い通路を作ったことがよくわかる。修復前の2003年撮影。