御鐘門復元
■DATA
建築:1663年
破却:1875年
規模:2間3尺×4間3尺(門櫓)
2間3尺×7間1尺(西ノ方御多門)
2間3尺×7間2尺(東ノ方御多聞)
建築:1663年
破却:1875年
規模:2間3尺×4間3尺(門櫓)
2間3尺×7間1尺(西ノ方御多門)
2間3尺×7間2尺(東ノ方御多聞)
山頂部二ノ丸の入り口を扼していた御鐘門。外桝形形式の櫓門であったことは間違いないが、高麗門を従えていたかどうかは、現状の遺構からは推定不能である。もっとも、城絵図に記載がないこと&平和な江戸中期に築造された門だけに省略された可能性は高いだろう。発掘調査が行われればはっきしりたことがわかるはずだ。
現地の状況、および正徳元年(1711年)の実測記録「村上御城廓」により、門のサイズは、間口4間、奥行き2間半ほどで、門の両袖に鍵の手に接続する2つの多聞櫓は、東側・西側ともに間口2間半に奥行き7間ほどの規模だったことがわかる。さらに、礎石の残存状況から、門の大扉の南側(画像では奥側)には通用門が、北側には番所が設けられていたことが判明する。
扉の右側に番所があったことを想定した復元案となっている。(『お城山とその周辺整備基本計画』より抜粋)
堅固な櫓門に2つの多聞櫓を接続し、曲輪全幅を封鎖していた御鐘門。画像を見ても、かなりの防御力を発揮したことが伺われる。だが、この門の真の戦術的価値を読み解くならば、ぜひとも周辺地形との関連を読み解きたい。
まず、右の図を見て欲しい。これは御鐘門の推定火制範囲を図示したものだが、曲輪内のほとんどが火制範囲である。つまり御鐘門があることによって、四ツ門~御鐘門の間は、積極的なキルゾーンと化しているのである。また、曲輪内のみならず、曲輪外にもかなりの射界を有していることにも着目したい。特に、敵兵の主要進入ルートである七曲り道が火制範囲に入っていることは注目される。
これを可能にしたのは、四ツ門との絶妙な位置関係だ。四ツ門から御鐘門までの距離は約100メートルと、奇しくも火縄銃の有効射程と一致するのである。また、御鐘門と四ツ門の比高差は約10メートルもあり(下図参照)、守備側は容易に頭上攻撃の利を得ることができるばかりか、比高差を活用することで、塀越しに曲輪外への射撃が可能となっているのだ。
地山の高低差を巧みに利用したこの縄張りは、まさに山城の面目躍如といった観がある。
(初稿:2003.11.21/2稿:2004.03.24/3稿:2017.07.23/最終更新:2018年10月25日)
曲輪内は文字通り死角なし。また、比高差が大きいので塀越しに七曲道を制射することも可能。[『お城山とその周辺整備基本計画』より抜粋]