三重櫓復元
■DATA
建築:1620年頃
破却:1778年(焼失)
規模:4間4尺×7間半(三重櫓本体)
2間1尺×13間3尺(御多門)
1丈5寸×3間3尺(入口御多聞)
建築:1620年頃
破却:1778年(焼失)
規模:4間4尺×7間半(三重櫓本体)
2間1尺×13間3尺(御多門)
1丈5寸×3間3尺(入口御多聞)
現在、ほとんど痕跡らしきものが残らない御殿周りの遺構であるが、往時は北から順に、茅門、角櫓、刎橋門、二重櫓、月見櫓、三重櫓、一文字門の順で、防御構造物が建てられていたことが判明している。右に示したのは盛時の様子を記したと思われる『越後村上城居城分間図』であるが、「コの字型」の区画に沿って、それらの建物が並んでいた様子が記されている。いずれも正保図段階で既に描かれていることから、1620年前後の掘氏の城普請によって築かれたものと思われる。
CG画像で示した三重櫓は、それら御殿周囲の建物の中で最大の櫓であった。正徳元年の実測記録「村上御城郭」によると、1階平面が4間4尺×7間半、2階が3間4尺四方、3階が3間四方であったことが判明する。極端な長方形平面であることから建築様式は望楼型であっただろう。また、3階についてわざわざ「板戸建」との注記があることから、建築当初は高覧を巡らせたオープンデッキであったのではなかろうか?
細部意匠については判然としないが、上記のような建物の特徴から、この画像では初期望楼型天守のような古式な外観であった…との想定のもの画像化を試みた。例によってあくまでイメージ程度の精度であるのはあしからず。
正確な制作年は不明だが、御殿が最大規模に拡大していた1660~1700年ごろの様子を描いたと個人的には考えている。(大瀧正輔氏蔵)
再現画像を見てもわかるように、三重櫓の規模は山頂の天守に匹敵するものであった。また、他の櫓とは意匠的にも差をつけていたことは間違いなく、単純な防御のためというよりは、城主の居所を権威付けるために、多分に示威的な意図を持って築かれたのであろう。筆者個人としては、まさに「第二の天守」としての意味合いがあったのではないかと考えている(詳しくは「第二の天守が存在した?」にて)。
なお、この櫓は幕末の解体を待たず、1778年に光徳寺からの飛び火を受けて焼失している。そのため、明治元年に描かれた「村上城城門絵図」には、残念ながらその姿は描かれていない。
(初稿:2004.06.19/2稿:2017.07.23/最終更新:2018年10月25日)
近世初期の築造とされる山麓居館であるが、外周の塁線は比較的折れが少なく、軍学的な配慮が希薄である。ひょっとすると、土塁と堀は中世本庄城の「根小屋」の塁線をそのまま受け継いだものではなかろうか?
「近世城郭並みの根小屋が中世に築かれるケースがあるのか」と気になる読者も多いと思われるが、幸いにも(?)村上城の位置する新潟県北部には、根小屋部分が異常発達した中世山城が多く見られる。有名なところでは国指定史跡の平林城に大規模な堀と土塁を備えた居館部が残存している。中世本庄城が、近世にも転用可能な大規模な根小屋を備えていた…という仮定はあながち妄想の類ではないと思うのだが…。