ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
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天守(初代)復元

天守(初代)復元
村上城・天守跡・写真
村上城・初代天守の復元3DCG合成写真

■DATA

建築:1620年頃
破却:1663年(建て替え)
規模:7間×5間?

CG画像の精度はあくまで「イメージ図」程度であり、学術的に厳密なものではありません。詳しくはこちらをご参照下さい

堀直竒が築いた初代天守

マニアックな村上城ファン(?)には周知であろうが、村上城の天守は2度築かれている。最初の天守は堀直竒によって、元和6年(1620年)前後に築かれたもの。二代目は、寛文3年(1663年)に松平直矩によって築かれたものだ。現在残る天守台の石垣は松平氏が築いた2代目天守のものだが、ここでは想像力にモノを言わせて、堀氏が築いた幻の初代天守を再現してみる。

初代天守の姿を知る唯一の手掛かりは、かの有名な『正保の城絵図』である。同絵図の建物描写はかなりアバウトであるが、細部に目を凝らしてみると、一重目の屋根には大きな千鳥破風が、三重目の壁面には小さな切妻破風を備えた突出部があったことが読み取れる。信州高島城の3階の意匠などが、割と近い感じかもしれない。

また、天守が総塔型だったのか望楼型だったのかについても気になる点だが、初代天守の一階平面が、二代目天守とほぼ等しいとすれば、現存の天守台(2代目天守)の規模から推定して、一階平面は7間×5間ほどとなろう。長軸と短軸の差が2間もあるため、望楼型でなければ建築は難しかったはずだ。

上記のようなおおざっぱな想定をもとに、典型的な望楼型の櫓として作成したのが今回の再現画像である。1階は7間×5間平面を持つ入母屋造り。その上に、4間四方の二階部分、3間四方の3階部分が乗る構造とした。

「正保の城絵図」に描かれた村上城初代天守

■正保の城絵図の天守

一重目の屋根には千鳥破風が、三重目の壁面には切妻破風を持つ出窓状の構造があったようだ。[国立公文書館所蔵]

仮想再現した村上城初代天守の立面図

■初代天守・推定図

壁材には謎が残る

残るは細部意匠である。まず、屋根材については「正保の城絵図」の描写から植物性材料と見て間違いなさそうである。用いる材質や葺き方は色々あるのだが、ここでは昭和の半ばまで当地の寺院建築に類例が残っていた(※1)ことを考慮し、杮葺きっぽいテクスチャを張り付けておいた。

一方、壁材については判断が難しい。正保図の描写を見る限り、漆喰塗籠と見るのが素直なのだろうが、新潟大学所蔵の堀家文書の中には、板張りにするよう指示した直竒自筆の書面も残っている。確実なことは不明であるが、、

・直竒が豊臣秀吉の小姓から身を起こしたこと(豊臣系の天守が好きそう)
・同時期に建築された山麓居館の三重櫓が、極めて古風な意匠であったらしいこと
・どのみち学術的な復元は不能なので、「if」を追究したほうが意味があろう(え?)

…等を勘案し、ここでは板張り説に基づく外装とした(※2)。なんだか「ミニ松江城」とか「ミニ松本城」っぽい気がしなくもないが、ともあれ、村上市の復元案に基づく二代目天守のCGとは、かなり印象が違う感じになった。(一応、構造そのままで壁体のみ白くすると、右のような感じにはなる)

(初稿:2017_12_12/最終更新:2018年10月25日)

(※1)

岩船の諸上寺がもともと杮葺きであった。その後、茅葺→銅板覆い化されて現在に至る。

(※2)

壁材に関しては「村上城は黒い城!?」で考察しています。

堀氏時代の村上城天守。漆喰塗り込め案。

■漆喰塗込案

同一構造で壁材のみ変更。こっちの案だとかなりスリムに見える。