城山北側に位置する現在の新町一帯は、かつて新町曲輪と呼ばれた侍屋敷地であった。その規模は東西700m、南北200mほどにおよび、4つの虎口(袋門、秋葉門、青木門、耕林寺門)にはそれぞれ枡形を有する櫓門が築かれていた。外郭とは言いつつ、江戸初期の段階では土塁上には塀もめぐっていたらしく「準城内」的な位置づけの町であった。
さて、「新町」という名前だけ見ると、後代になってからできた町のように聞こえるが、実際には、近世城下町の建設と同時に成立した古い町である。「村上雑記」という古文書を紐解くと、村上頼勝・忠勝の事績を記した箇所に「此御代 三ノ丸、表裏両新町、追手前ノ御堀出来ノ由」との記述が見られる。このことから、少なくとも同家が改易される1618年までには町の原型は出来上がっていたと思われる。
青木門、耕林門周辺。土塁上には塀が巡る。[国立公文書館蔵]
町を囲郭していた堀・土塁・城門などは明治末期までにはすっかり破却された。しかし、かつての道路形態や屋敷地の区画に使われた杉生垣などは全般としてよく保全されており、かつての風情を今に伝えている。
中でも特筆すべきは武家屋敷の残存数の多さで、付近には文化財指定を受けた物件はもちろん、一般住宅として現役の物件も散見される。隣接地域も含めると、その総数は10棟近くに達するようだ。
そんなわけで、平成2年度には二之町、三之町地区とあわせ、国の伝統的建造物群保存地区への指定を目指した調査が行われたが、諸般の事情から指定を断念。その後は市の単独事業に切り替え、現在は「歴史的風致維持向上計画」の「重点区域」として景観の維持向上が図られている。なお、家主のなくなった武家屋敷の一部は付近に設けられた「まいづる公園(皇太子妃殿下ご成婚記念公園)」にて移築保存が図られており、無料で一般公開されている。
(初稿:2004.01.14/2稿:2004.01.17/3稿:2005.06.03/4稿:2017.07.23)
こちらは一般住宅として現役の福崎・佐藤家。長屋建築の一部が残っている状態。市内にはこうしたお宅がもう数件ある。