東門跡
■DATA
残存物:石垣
残存度:★★
藪化度:★★★
残存物:石垣
残存度:★★
藪化度:★★★
東麓からの登城道から坂中門を経由し、さらに山頂部に向かって歩を進めると、やがて登城道は御鐘門の直下に到達する。ここに位置し、搦手から二ノ丸への入口を扼していたのが東門である。
遺構の残存状態は正直芳しくない。築城当初から存在し、かつては櫓門であったことが絵図等から判明しているが、袖石垣がほとんど崩壊してしまっているため、正確な位置や規模を現地で推定するのは不可能である。記録上の平面規模は3間×4間なので、本来であれば御鐘門や冠木門(櫓門部)と同大のしっかりした規模であったはずだ。
かつては立派な櫓門であった。[国立公文書館所所蔵]
往時はそれなりの規模を有した東門であるが、防御上の観点から言えば、イマイチそのポジショニングがはっきりしない。すなわち、東門背後に控える切岸が図中Aの位置でスロープ化されているため、搦め手側から攻めてきた敵が東門を突破した場合、御鐘門~四ツ門の区画が、敵中に孤立することになってしまうのだ!
御鐘門が寛文期になってから増築されたことを差し引いても、どうにも理解に苦しむ構造である。また、急峻な切岸がA位置だけスロープになっているのも、なんとも不自然である。当初からスロープであったのか、近代の造林等にともなってスロープ化されたのか特定したいところであるが、城絵図の記載はどれも決定打に欠けるようである。
(初稿:2003.12.22/最終更新:2017年07月23日)
矢印で示した経路が敵の予想侵攻ルート。図中「A」の位置で上通り道と下通り道がつながっているため、万一東門が突破された場合、御鐘門が敵中に孤立してしまう?
なんか城の遺構というよりは、ピラミッドの発掘現場のような雰囲気である…。ひょっとすると、人工的な破壊の跡なのかもしれない。
右手に見えるのが「上通り道」との間を画す切岸。比高差はおよそ4m程度。これだけ明確な遮断意図を持った構造物が、東門の裏だけスロープ化されているのがどうにも不自然である。
この図においては、東門裏手がスロープであったのか切岸であったのか判然としない。享保期の絵図ではなんとなくスロープっぽい描写であるのだが、、。(「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」村上市所蔵)