御鐘門跡
■DATA
残存物:石垣、門礎石
残存度:★★★★★
藪化度:★
残存物:石垣、門礎石
残存度:★★★★★
藪化度:★
七曲り道を上って山頂部に到達後、四ツ門から本丸方面へ向かうと、道はすぐに急な上り坂となる。この斜面の頂部に位置し、二ノ丸と三ノ丸を隔てていたのが御鐘門である。
遺構の保存状況は良好である。南北2つあった多聞櫓の石垣が旧状をとどめるほか、門柱を立てた礎石まで旧位置を確認できる。特にホゾ穴が明瞭に残る礎石となると、他では冠木門のもの以外には存在しない。
また、四ツ門から続く斜面には、部分的ながら何列かの石列が残存する。これは往時「八ツ段」と称された石段の残欠で、明治元年の絵図にも、四ツ門~御鐘門の斜面が階段状に処理されていた様子が描かれている。おそらくは「七曲り道」と対応する名称として付けられたものであろう。
御鐘門から四ツ門の間には石段が存在した。(「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」村上市所蔵)
さて、この遺構を特徴付けるのは他の遺構に比べて非常に加工度の高い石材で築かれた石垣である。村上城の石垣は、そのほとんどがやや荒々しさを残した「打込接」で築かれているが、この門に限ってはほぼ「切込接」に近い精度で加工された石材で築かれている。
実はこの背景には、御鐘門の築造年代が大きく作用していると思われる。村上城の多くの石垣は、1620年代の堀氏の普請によって築かれたと推定されるが、この時代の村上城の姿を記した「正保の城絵図」に御鐘門は描かれていない(右参照)。御鐘門が城絵図に描かれるようになるのは、時代が下った1700年代以降のことなのだ。
というわけで、御鐘門は築城当初は存在せず、後代になってから「増築」されたものと見て間違いない。築造時期はおそらく、松平直矩が大修築を行った1663年(寛文3年)頃であろう。石材の加工精度の高さは、この年代差を反映しているのではなかろうか。 この件に関する詳しい考察は「堀氏時代の村上城」を参照のこと!
(初稿:2003.11.21/2稿:2004.03.24/3稿:2005.04.27/4稿:2005.10.05/採取更新:2017年07月23日)
御鐘門がまだ築かれていない?(国立公文書館蔵)
「八ツ段」と称された石段の残欠? 本来は9~10段ほどあったらしいが、今はほとんどなくなっている。
御鐘門と四ツ門の比高差はおよそ15メートル。四ツ門を突破した敵に効果的に頭上攻撃をかけられる。
根石保護のための土盛もされているのだろうが、櫓や門の周辺を除き、石垣高は非常に低い。切岸上に並ぶ腰巻石垣といった感じだ。