臥牛山の尾根続き、羽黒口の東裏手には、通称「八幡山」と呼ばれる標高50mほどの小さなピークが存在する。かつて八幡社が祀られていたことに由来する名称だが、実はこの尾根には、中世本庄城の城郭遺構がまとまって残存する。ここでは便宜的に「八幡山遺構群」と呼称する。(※1)
遺構は、八幡山頂部を中心としたいくつかの曲輪と、それらの間を切断する3条の掘切から構成される。詳しくは右の概略図を見て欲しいが堀切Aは、深さ約2m。堀底を俗称:八幡道と呼ばれる里道が通る。堀切Bは、上端幅5~6m。中央部に土橋の痕跡状の地形が残る。堀切Cは遺構群の中で最大の堀切で、上端幅8~10m、深さ約3mを測る。
中でも注目されるのは堀切Cで、曲輪側に高さ2mほどのかなり丁寧な造りの土塁を伴っている。遮断系(?)の意図が目立つその造作、及び、これより南に遺構らしきものがないことを考えると、この地点こそが中世本庄城の南限であったのではなかろうか。(※2)
なお、これら尾根上の遺構群から20mほど下った西側斜面にもいくつか削平地が残るが、これらは近世の城下絵図との照合から、八幡社、ならびに神明社の跡地であると考えられる。純然たる中世期遺構かは判別が難しいところだ。以下は上記のような想定をもとに作成した3DCGである。建物の類はほぼ想像であるのは悪しからず。
それなりにまとまった遺構が残る。村上城で明瞭な堀切が見られるのもここだけだ。(金子拓男「村上城跡からみた中世の村上城跡」2002.03を参考に、筆者現地踏査をふまえて作成)
※1)新潟県の遺跡台帳には、村上城とは別に「牛沢城」として登録されている。村上城の史跡指定範囲にも含まれておらず、特段の保護措置は取られていない。対応が急がれる遺構である。
※2)上杉謙信に反旗を翻した本庄繁長の乱に関する本庄家側の記録「越後村上戦認書」には、欄の末期に「南ノ外張」が破られたとの記載がある。個人的にはこれに相当する遺構なのではないかと思う。
概略図を一見して分かるように、別頁で紹介した元羽黒の遺構群と、八幡山の遺構群は、実質的にひとまとまりの遺構として評価できる。「遮断系」の防御施設に特化した造り、そして、元羽黒を介して山頂の本丸近くまで連絡できることを勘案すると、城郭中心部の前衛として、半独立陣地的な運用が想定されていたと思われる。
一方、周囲を取り囲む複雑な沢地形も、見る人が見れば竪堀として評価するかもしれない。だが、城下絵図を何枚か見たところ、付近では里道の付け替えが何回か行われているようで、竪堀状地形の一部は道跡であると思われる。特に、八幡社跡を迂回するように刻まれた一番北側のものは、江戸末期の道路痕跡である公算が高い(右参照)。
とは言え、城郭中心部が近世期の改変を受けていることを考えると、まとまった中世期遺構が残るこの地点は、中世「本庄城」の姿をかいま見られる非常に貴重な場所であると思う。大人の背丈ほどもある笹薮で覆い尽くされているが、機会があったらぜひ見学してみて欲しい。なお、中世期遺構全般については「中世期遺構群」を参照のこと。
八幡社を迂回するように道がついていたことがわかる。現在の道は八幡社移転後にショートカットのためにつけられたようだ。(「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」村上市所蔵に筆者加筆)
現在では、訪れる人もなく、ほとんどその存在が知られていない八幡山・元羽黒の遺構群であるが、文献資料や古図を調べ直したところ、どうも江戸期にはその存在は周知のものだったらしい。…というか、この山に立地していた八幡社、神明社は相応の規模を有する神社であり、周辺の山には日常的に人が出入りしていたのだ(※3)
「村上町年行事所日記」によれば、両社には藩主が度々参詣に訪れたほか、修復の際には藩の事業として行われたことも確認できる。面白いところでは1833年に大津波がこの地方を襲った際に、村上町の町人が、「羽黒山、八幡山、神明其外所々高キ所へ逃ゲ上リ~云々」したことも記録されている。大勢の町民が登れたことから判断すると、少なくとも現在のように、山全体が藪に埋もれていたわけではなさそうである。
また、絵画資料からは、単に人の出入りがあっただけでなく、藩施設が置かれていた時期があったことも確認できる。許諾をとれていないので、現物をお見せできないのだが、たとえば、村上市所蔵の元禄期の城下絵図の八幡山付近には「鉄砲場」の注記が付されている。実際、地元の伝承でも「八幡山周辺は鉄砲の調練場であった」との話が伝えられているので、何らかの調練施設が置かれていたことは間違いなさそうだ。現状の遺構を見ても、堀切C脇の土塁などは中世期の築造にしては異様に鋭利な断面をしており、後世に調練施設として再整備されたと見れなくもない。
そして極めつけは、明治元年に描かれた「村上城城門絵図」である。右にその一部を示したが、階段状に削平された八幡山頂部の状況が見事に描写されている。このように山頂を階段状に描く描写は、古城跡を描く際の常套手段である。絵図を描いた村井与一郎は、この地がかつての古城跡であることを認識していたのではあるまいか。
以上から判断すると、少なくとも明治維新時までは、八幡山が中世期の城跡であったことは村上町の住民には周知であったと思われる。その存在が忘れ去られたのは、意外にも明治に入ってからだったのではないだろうか?
(初稿:2005.11.17/2稿:2006.01.10/3稿:2006.01.11/4稿:2017.07.23/5稿:2019.01.20/最終更新:2020年02月21日)
※3)両社とも江戸時代は立派な社殿を有する神社であった。宝永2年の「村上寺社旧例記」よると以下の通り。八幡宮=「宮殿 弐間ニ弐間五尺 拝殿 二間四方 前殿 二間二間」/神明宮=「内陣 九尺ニ壱間 拝殿 弐間ニ弐間 前殿 三間ニ三間」。
硝煙蔵付近の図より。削平された八幡山頂部の状況が活写されている。。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
堀切…というか、通称八幡道と言ったほうが通りがいい。掘底道だと気づいたらキミも城オタ!
上端幅5m、深さ2mほど。この写真では分かりにくいが結構強烈なV字断面。真ん中あたりに半壊の土橋状地形が残る。
堀切Cの北側、曲輪に沿って高さ2mほどの土塁が伸びる。かなりしっかりした作りである。