近世初頭に石垣作りの村上城が築かれる以前、臥牛山上には中世城郭「本庄城」が存在した。その名の通り、歴代の城主は揚北の雄として名を馳せた本庄氏で、中でも戦国末期に登場した本庄繁長は、上杉謙信・景勝に仕えた猛将として知られている。
さて、そんな本庄城の姿は、米沢の上杉家が所蔵する「瀬波郡絵図」に「むらかみようがい」として活写されている。一見するとかなり概念的な描写に見えるが、山頂部が大きく3段に削平されていたことや、山麓に後の山麓居館の原型と思われる区画ができていたことが読み取れる。近世村上城の基本構造は、中世本庄城の段階でほぼ定まっていたようだ。
一方、細部に目を転じてみると、石垣ではなく切岸(※)が防御の主体であったこと、建物の多くが板葺きや茅葺きであったこと、曲輪の区画に塀を使うのは一部で、ほとんどは柵で囲われていたことなども読み取れる。城と言うと、白亜の天守が聳える姿を思い浮かべる人は多いと思うが、本庄城を典型とする中世城郭の多くは、そうしたイメージとは全く異質な存在であったのだ。
いかにも要害という感じの中世村上城=本庄城。(米沢市上杉博物館蔵「越後国瀬波郡絵図」)
山腹を削り込んで作った急斜面。中世城郭の最も基本的な防御施設で、村上城では東側斜面の中世期遺構群に良好に残る。
慶長年間以降の近世城郭化に伴い、山頂部の中世期遺構はほとんど破壊されたと思われる。近世期に放棄された東側山腹や、城山から派生する尾根である天神平、八幡山などにある程度まとまった遺構が残るが、その他はいまいち判然としない。部分的な発掘調査では、排水溝の検出はあるものの、礎石や柱跡も見つかっていないため、建物の位置も確たることは言い辛い。
というわけで、今回の復元画像は、各地で復元された中世城郭の事例を参考に、「大体こんなもんだろう」というごく大雑把な想定に基づいて作成した。一応、現在の出櫓付近の景観を再現しているが、本丸との間には堀切があり(※)、そこには木橋がかかっていたという設定である。本丸は現在よりも削平が甘かったはずなので、2~3段程度の段郭に取り囲まれていたのではなかろうか。本丸上に立ち並ぶのは、城主の山上御殿と物見のための井楼である。
歴史に「if」は禁物だが、もし本庄氏の移封後に村上氏が入封することがなければ、臥牛山の頂上にはこのような遺構が残存していたかもしれない。それはそれで面白いような気もするが、その場合、村上町が小さな街村のままであっただろうことは想像に難くない…。
多分な想像を含みますが、戦国期の本庄城の姿を3Dムービー化しました。ご興味のある方はぜひご覧ください。なお、全体イメージは以下のような感じ。中世「本庄城」の姿とは?で一応の考察プロセスをまとめています。
(初稿:2005.04.15/2稿:2017.07.23/3稿:2019.06.16/最終更新:2020年05年15日)
出櫓(上)や本丸(下)の石垣は意味ありげな土壇上にある。中世本庄城の痕跡か?
(※)石垣修復工事に伴う部分発掘で、出櫓台基部の岩盤に掘り込み痕が確認されている