臥牛山東麓には、かつて田口曲輪と呼ばれる外曲輪が広がっていた。城下全体の搦手口となるだけに、外部から直接出入りできるルートは田口門ただ1箇所に限定され、あとは新町曲輪を経由して、城山北側から回り込むルートがあるのみであった。市内門(いちないもん)は、後者のルートを扼すべく、田口曲輪の北端に建てられた門である。
「村上城城門絵図」「村上御城郭」等の記録から、門は右折れの枡形土塁の間に建てられた、比較的簡易な構造の長屋門であったようだ。城外に直接面していないために、それほど強固な構造が必要とされなかったのであろう。それは、本格的な石垣が構築されていなかったことからも伺われる。
門跡には現在、臥牛山から鳥嘴状に伸びる土塁の一部が残存している。周囲の堀などはすっかり埋め立てられており、地形痕跡もそれほど明瞭ではないが、あえて指摘するならば、鍵の手に屈曲する山裾道が痕跡に見えなくもない…。
なお、その名称については市苗門(いちなえもん)が訛ったものとする説もあるが、今ひとつ判然としない。
(初稿:2005.08.20/2稿:2005.08.22/最終更新:2017年07月23日)
比較的簡易な門であったらしい。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
昭和の半ばに国道7号線が通るまで、市内門付近は荒地や畑地になっていた。しかし、近世初頭の1600年から1700年ころまでは「田口曲輪」と呼ばれる武家屋敷街になっており、特に近世初頭の村上氏の時代には、筆頭家老の吉武壱岐守の屋敷が付近にあったとされる。
そこで、1989年、民間による宅地開発を機に、村上市教育委員会はトレンチ調査による発掘を実施した。その結果、市内門付近から、江戸のごく初期、村上氏時代のものと思われる古い石垣の基底部が検出された。その後の追加調査により、この石列は二列が並行して南北に100mほど伸びていることが明らかになり、その形状から土塁の基底部と推測されている。
しかし、右図を見てもわかるように、この石列は明治元年の城下絵図から推定した外郭ラインよりもかなり内側に位置している。どうやら、村上氏時代の田口曲輪は、後世とはかなり違った姿をしていたようだ。
おそらく、村上氏の後に入封した堀氏の時代に、田口曲輪は再度拡張されたのであろう。周辺も掘ってみれば何か出てくるかもしれないが、なにぶん、国道に面する地域のため、近年は商業施設の進出が著しい。地下の攪乱が進んでしまっていないか気がかりである。
国土地理院「標準地図」を筆者加工。石垣検出箇所は『1989 村上市文化財調査報告 村上城跡田口地区における発掘調査報告』による。