臥牛山東麓の国道7号線裏手一帯は、かつて「田口曲輪」あるいは「田口屋敷」と呼ばれた武家屋敷街であった。近世初期の村上氏時代には、筆頭家老の吉武壱岐守以下「山衆」と呼ばれる家臣団が居住しており、「壱岐殿丸」とも呼ばれていたようだ。絡手防御を担った区画にふさわしく、この曲輪の入り口は田口門と市内門の2箇所のみで、山頂に向かう道も坂口御番所を経由するルートがあるのみだった。
現在、曲輪周囲の堀と土塁は失われたものの、斜面を階段状に造成した削平地は、数段に渡って良好に残っている。削平面の周囲は2~3メートルほどの高さの切岸が巡るが、特に防御意図を感じさせるような塁線形状や出入り口は見出せない。唯一、下図のC地点で枡形状の通路の屈曲が見られるが、本格的な門が築かれていたという記録はない。おそらく、あったとしても簡単な木戸レベルで、正徳年間の実測記録『村上御城廓』に記された「田口御土居内三之辻」の跡地に比定される。
街区の規模から考えて、往時は相応の人口があったと思われるが、村上藩の石高が15万石から5万石に減少した本多氏の時代を最後に、屋敷地としての田口はその役割を終えた。明治元年の「村上城城門絵図」(右参照)を見る限り、幕末期にはすっかり藪に還っていたようである。
あ屋敷の区割り痕跡が描かれている。(村上市所蔵「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」)
(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
現在ではいかにも城の「裏口」然とした田口曲輪であるが、戦国時代の本庄氏在城期には、城の「正面」であった可能性が高い。事実、永禄期に上杉謙信が攻城戦を行った際の記録「北越村上城軍認書」には「村上東ノ根小屋ヲ責ル」という記述が登場する。城下町のある西側に居館が構えられて城の表裏が逆転したのは、上杉の番城支配が行われた慶長期以降と考えられる。
こうした観点を踏まえ、改めて遺構を見直してみると、興味深い事実が見て取れる。すなわち、ほとんどの区画が長方形に整形されている中にあって、上図のA、Bの区画のみが、北東端を切り欠いた不自然な形をしているのだ。
実は、こうした形は、鬼門(=北東)封じを意図して城主居館などに特徴的に表れる形態であり、A、Bの区画にはそうした配慮を必要とする高貴な身分の人間が居住したことを想起させる。さらに、田口曲輪が機能していた時代の城下絵図を一通り確認したところ、A、Bの区画を含む、上段の削平地が屋敷地として描かれたケースは皆無であった。侍屋敷に充てられていたのは、最下段の削平地のみのようである。
以上から、筆者としては、最上段の削平地A、Bこそが戦後期「本庄城」の根小屋の跡地で、一種の「忌み地」として江戸期を通じて利用されなかった(=本庄城時代のまま残っている)可能性が高いと考えている。村上氏時代の絵図が残らないので、確定的なことは言いえないが、今後の発掘の進展によっては、本庄氏段階の居館の姿が明らかになるかもしれない。
(初稿:2006.02.18/2稿:2017.07.23)
「瀬波郡絵図」には、江戸期と同じ西側に城主居館が描かれているが、この絵図が成立した慶長2年、既に本庄城は春日元忠の在番支配期にあることに注目すべきであろう。「北越村上城軍認書」が記す永禄期の戦いから既に30年が経過しているので、かなりの改修が加えられていたと見て間違いあるまい。
ダラーンとした平坦面が続く田口曲輪にあって、なぜかここだけ凝った造型。鬼門封じか?
高さも低く、それほど防御力はなさそう。まさに分譲住宅地が造成されたようだ…。
商業施設の建設に伴い、かなり派手に削られている。国道沿いとあって、開発圧力は高い。