坂口御番所跡
■DATA
残存物:土塁虎口
残存度:★★★
藪化度:★★
残存物:土塁虎口
残存度:★★★
藪化度:★★
田口中門から搦手の登城道をさらに下ると、谷底道が平地に開ける位置に、谷口を横一文字に塞ぐ形の土塁が見えてくる。これが江戸期の東側登城道の最前線、坂口御番所の比定地である。
遺構としては、中央に開口部を持つ高さ2mほどの土塁が残存している。開口部はかつての木戸跡と推定されるが、単純な平入り虎口となっており、それほどの防御意図は感じられない。搦手の他の門が比較的厳重な作りになっているのとは対照的であるが、「番所」という性格上、この施設は防御というよりは、あくまでも通行人の監視を主目的としたものであったのだろう。
また、この土塁の造作や規模は臥牛山南東側斜面の中世期遺構群のものと極めて近い。資料的な裏付けは欠くものの、中世期の遺構が近世期に引き続き使用された可能性は高いように思われる。(※)
今でこそすっかり山野と化してしまったが、かつてこの番所の城外側には「田口曲輪(田口屋敷)」と呼ばれた侍屋敷を収容する外曲輪が広がっていた(右参照)。緩斜面を階段状に削平しつつ開発された区画で、現在でも棚田のように展開する削平地が数段に渡って残っている(下左)。坂口御番所はこの曲輪と城内を明瞭に区画する役割を期待されていたのであろう。
しかし、この曲輪がまともに機能していたのは江戸時代初頭の数十年間に限定されるようだ。というのも、村上藩の禄高が15万石から5万石に減封されたため、田口屋敷もすっかり空家だらけとなり、しまいには放棄されてしまったからだ。一応番所を設けて管理はしていたものの、江戸末期にはほとんど人が通らない場所になっていたのではないだろうか。
実際、明治元年に描かれた『村上城城門絵図』には、すっかり空き地と化した曲輪の姿が描かれている。
(初稿:2004.05.30/2稿:2005.07.01/3稿:2017.07.23)
緩斜面を階段状の削平地とし、侍屋敷を造成していた。(村上市所蔵「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」)