いわゆる「総郭型」の城下町であった村上城下は、ほぼその全周を総延長10km近くに及ぶ堀と土塁で囲郭されていた。主要街道から城下への入り口には、街道を意図的に屈曲させた防御装置「桝形」が構えられており、中でも現在の庄内町にあった桝形は、村上城下で最大規模のものであった。現在でもその形態は庄内町~久保多町にかけての街路形状に残されている。
各種城絵図により、方形区画に沿って「コの字」型に堀と土塁を築き、その両端に出入口を設けた構造であったことが判明する。さらに、外周の道路は堀端に沿うように付けられており、郭内側から効果的に射撃を浴びせられる構造であったことも読み取れる。「正保の城絵図」の注記によれば、周囲を巡る堀幅は7間、長さは110間あり、堀を渡る箇所には木橋がかかっていたようだ。右に桝形を北側上空から見た推定CG図を示しておく。
コの字型区画の内側に門や番所があったかどうかについては絵図により描写が異なるため、イマイチ判然としない。建造年代については堀家在城時の1620年代の出来事として「村上城主歴代譜」が記すほか、国立公文書館が所蔵する「元和~寛永の城絵図」にも、その姿が確認できる。ちなみに、村上町の地子が免除となったのは、この桝形の建造に際して、町民が労働奉仕を行った功による。
現在の地図と明治元年の地図を重ね表示してみた。変形十字路やT字路が密集しているが、それらは桝形外周の形状が道路形態や地割りとして残ったものである。(国土地理院ウェブサイト「標準地図」を筆者加工)
本来は攻撃・防御施設として築かれた庄内町桝形。江戸期を通じ、清掃や草刈り、堀底浚いを定期的に行いつつ維持されていたが、平和な時代が長く続くにつれ、一種の広場…というか、「イベントスペース」的な利用が目立ってくる。
町の行政記録である「村上町年行事所日記」にはその様子が詳細に記されている。特に、1700年代後半あたりからは、各種見世物や興行の申請が目立ってくるほか、盆踊りの「おんど場」としての利用が、毎年のルーティンと化していたこともわかる。興味深いのは、藩当局の対応で、許可を出すには出すのだが、大イベント特有の風紀の乱れには非常に神経を尖らせており、喧嘩・口論の禁止や、派手な衣装は着るな…といった廻状が毎年のように出されている。
なお、当地では「桝形」と呼ばれ、地元に残る古文書等でも同じく「桝形」と記されている当遺構であるが、現在の城郭用語の定義に照らせば「馬出し」(より厳密に言えば「角馬出」)と呼称するほうが妥当だろう(※)。実際、近年の城郭関連書籍の中には、そのように紹介しているものもあるが、江戸時代の住民や藩当局が、なぜ「桝形」で通したのか気になるところである。
(初稿:2018.01.25)
江戸期を通して同じ構造のまま維持された。周囲に町屋が立ち並ぶにつれ、防御施設というよりは「イベント広場」的な利用が増えてくる。(国立公文書館所蔵「越後国村上城絵図」/村上市所蔵「内藤侯治城明治維新時代村上城下絵図」)
桝形、馬出し等の用語については、wikipediaの「虎口」のページ等を参照のこと。
桝形跡に近い庄内町、久保多町、加賀町は伝統的な街並みがよく残っている。小さな社や小路もあってよい感じである。
桝形周囲の土塁と堀はすっかり失われてしまったが、堀跡の一部は細い水路として今も現役。昭和の半ばまでは洗濯や野菜洗いに利用されていた。
樹齢300年を超える欅の巨木が目印。城下全体の北を鎮護する意味合いもあるように思う。