本丸南西隅に位置する天守台は、1619年以降、堀直竒が山上城郭を大改築した時に初めて築かれたと推定される。天守は三重であったと伝えられ、その姿は「正保の城絵図」(右)に活写されている。本図の描写からは、一重目屋根には千鳥破風が、三重目壁面には切妻破風を載せた出窓状の突出部があったようである(再現画像については「初代天守復元」を参照のこと)。城下から見ても天守台石垣は良く目立ち、城主権力の誇示に一役買ったであろうことは想像に難くない。
時代が下った1663年(寛文3年)、天守櫓は松平直矩によってさらに立派なものに改築された。建物に関する詳細な記録は残らないが、『村上城主歴代譜』の「(松平氏の工事によって)丹後守様御代より山上地形三尺下ル」という記述を信頼すれば、現在残る石垣はこの時の工事によって築き直されたものということになる。(二代目天守の再現画像については「天守復元」を参照のこと)
しかし、折角改装したにも関わらず、この2代目天守はわずか4年で落雷により焼失してしまい、その後再建されることはなかった。実際、天守台上に残された礎石には、天守が炎上したときのものと思われる割れが見られ(右)、火災の様相を今に伝えている。
[国立公文書館所蔵]
高熱にさらされたためか、礎石はことごとく割れている。
現存する天守台石垣の平面規模は、およそ10m×14m程である。郭外側の石垣は旧規をとどめているようだが、郭内側の石垣は、小ぶりの石が雑然と積まれた感じになっており、かなり改変が加えられているようだ。
付近で注目されるのは、天守入口の石段直下から北へ向かって続く石列の存在である。建物の礎石ではなさそうだし、塁線から大きく下がった位置にあるため、塀の基底部とも思えない。
…となると、天守に接続していた多聞櫓に関わる遺構と見るのが最も妥当なのではないだろうか。特に、屋根から落ちる水を受けた、「雨落溝」の可能性はかなり高いように思われる。真相は掘ってみないことにはなんとも言えないが、各地の城郭に類似の遺構が多数残っていることを考えると、その公算は高いと思う。
(初稿:2003.11.21/2稿:2004.03.24/3稿:2017.07.23/4稿:2018.01.08)
天守台から北へ向かって伸びる石列。よく見ると二列ある。
本丸直下の帯曲輪から天守台を望む。夏場はつたが茂ってほとんど見えないっす。
天守からは長大な渡り櫓が伸び、冠木門へと接続していた。やはり焼損の跡が見られる。
一番左の写真とは逆向きに撮ってみた。帯曲輪とはかなりの高低差があることがわかる。