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埋門跡

埋門跡
村上城 埋門跡 写真

■DATA

残存物:石垣
残存度:★★★★
藪化度:★

塀の下に空けた簡易な門遺構

冠木門直下の本丸帯曲輪東側の石垣には、幅1間ほどの小さな開口部が残存する。現在は「中世散策コースの入り口」と言ったほうが通りがいいかもしれないが、この開口部にはかつて埋門と呼ばれた城門が構えられていた。

一応、内枡形状に石垣が組まれてはいるものの、その規模から見て本格的な櫓門があったとは想定し難い。事実、城絵図や文献資料をあたってみても、その多くがこの門を文字通りの「埋門」として記している。

また、多くの城絵図は、門の外を単なる藪として描き、門の先に続く「中世散策ルート」に相当する城道や、その先にある中世期の帯曲輪群を描いていない。おそらくこれらの施設は、近世中期以降はすっかり放棄されていたようだ。埋門は、これらの施設との連絡用というよりは、非常事に山腹を縫って脱出するためのルートを確保するために維持されていたのであろう。

近世初頭は櫓門だった?

以上のような考察を踏まえると、近世段階では、埋門はさしたる役割を期待されない、簡易な門であったように思われる。しかし、そうした想定を覆す資料が存在する。近世初頭に描かれた「正保の城絵図」である。この絵図にはなぜか、立派な櫓門として埋門が描かれているのだ!

絵図の描写がいい加減である可能性も否定できないが、ここで注目したいのが、同絵図の臥牛山東側斜面の描写である。右に現物を示したが、ちょうど帯曲輪群のあたりに塀が巡っていることがわかる。

同様の描写は、「正保の城絵図」よりさらに古い時代に描かれた元和の城絵図にも見られる。細部での違いはあるものの、やはり、埋門から下った位置に帯曲輪群と、その周囲を巡る塀が描かれている。

これらを踏まえると、おそらく、両絵図が描かれた近世初頭の段階までは、埋門もそれなりの規模を備えた櫓門であったのだろう。その後、城の縄張りが変更され、帯曲輪群が放棄されたのにともない、門の構造も簡易化されたと思われる。その時期は、松平直矩の大修築が行われた1660年代のことと推定される(※)。

(初稿:2006.03.15/2稿:2017.07.23)

「正保の城絵図」では櫓門として描かれる、村上城埋門

■近世初期段階の埋門付近

「正保の絵図」(上)、「元和~寛永の城絵図」(下)に描かれた埋門と帯曲輪群。[両図とも国立公文書館所蔵]

(※)

「掘氏時代の村上城」を参照のこと。