ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
トップ 村上城の謎

屋根は何で葺かれたか?(2)

「植物性材料以外」を暗示する絵画資料も!

だが、ここで一つの疑問が生じる。村上城の姿を描いた古絵図の中には、明らかに「植物性材料ではない屋根材」を表現したと思われる絵図が存在するのだ。

1)明治元年辰ノ八月村上城下の図
まず注目されるのは、明治元年に描かれた「明治元年辰ノ八月村上城下の図」(右)である。同絵図はかなりのデフォルメが入っているものの、建物の屋根材を明瞭に描き分けており、例えば、追手門や飯野門の屋根は植物性材料と思しき薄茶色、小石垣門や下渡門の屋根は青色で描かれている。この絵図では、臥牛山山頂部の建物の屋根はすべて青色で描かれている。

2)村上城城門絵図
さらに、同じく明治元年に描かれた「村上城城門絵図」(下)も見てみよう。わりと写実的に描かれた同図においても屋根材が描き分けられており、大手門や飯野門は板葺き(?)らしき、黄色地にタテのラインで描かれ、下渡門や小石垣門の屋根は墨色の塗りつぶしで表現されている。描き分けは、上記の「明治元年~」地図と一致するようだ。

村上城城門絵図

(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)

明治元年辰ノ八月村上城下の図

■明治元年辰ノ八月村上城下の図

杮葺きっぽく描かれた追手門(右)と、瓦葺っぽく描かれた小石垣門・下渡門(左)。(「明治元年辰ノ八月村上城下ノ図(模写)/『史跡村上城跡整備基本計画資料編』所収」)

現時点での暫定的仮説=銅板葺

では、「植物性材料ではない」とすれば、両図で描かれた屋根材は一体何なのであろうか? 「やはり本瓦葺なのでは??」と長らく思っていたのだが、瓦葺にしては妙にのっぺりした描写方法が不自然であるし、前述の発掘調査の結果(瓦片の類が一切検出されない)とも矛盾してしまう。

というわけで、筆者の暫定的な見解として、これらの描写は「銅板葺」を表現したものなのではないかと考える。割と近代的な工法のように思われがちな銅板葺だが、実は、江戸期の城郭建築に用いられた事例は皆無というわけではない。当初から銅板葺きだった松前城(北海道)のほか、杮葺や栃葺きを銅板に変更した弘前城(青森県)、盛岡城(岩手県)、御殿建築まで広げれば金沢城二ノ丸御殿(一部)のようなケースも存在する。植物性材料を用いる檜皮葺や杮葺の耐用年数は2-30年程度。定期的な葺き替えにコストが嵩むため、今でいう「メンテナンスフリー」な屋根への転換が進められたのではなかろうか。

そう考えると、明治元年の城下絵図に、複数の屋根材が混在しているのは、築城当初はすべて檜皮、もしくは杮葺きだった建物に対して、段階的に銅板葺きへの改造が行われた結果とみれば無理なく説明がつく。青色の表現も、銅板葺の屋根が緑青を吹いた状態と見れば、そう不自然ではあるまい。

…と、ここまでつらつら考えてはみたが、決定的な資料がない以上、素人の推測の域は出ない。寒冷地とは言え、村上より北に位置する山形城や鶴ケ岡城では、屋根材に瓦が使われているし、幕末期には耐寒性能を向上させた赤瓦なども開発され、萩城、会津若松城などで実際に使用されている。瓦葺の線が完全にないとは言い切れまい。今後の新資料の発見に期待したい。

(初稿:2003.11.21/2稿:2017.07.23/3稿:2018.08.21/最終更新:2018年10月06日)

明治元年辰ノ八月村上城下の図

■「明治元年~」絵図

これだけ見ると、総瓦葺で描かれたかのように見える山頂部の楼閣群。(「明治元年辰ノ八月村上城下ノ図(模写)/『史跡村上城跡整備基本計画資料編』所収」)

1 2