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村上城は重箱の城?(1)

4間×3間が標準サイズ

標高100mを超える高所に築かれたにも関わらず、多くの櫓を有した村上城。今となっては、数点の城絵図にその姿を偲ぶのみだが、幸いにも、正徳年間の実測記録である『村上御城廓』(※1)により、1711年時点で残存していた櫓については、かなり詳細な平面規模が判明する。門や番所、多聞を除き、明確に櫓としてカウントされた建物を大きさ順に抽出すると、

■三重櫓…………7間3尺×4間4尺
■鐘櫓……………4間2尺×3間3尺(※2)
■玉櫓……………4間2尺5寸×3間1尺5寸
■靱櫓……………4間2尺5寸×3間1尺5寸
■乾櫓……………4間1尺8寸×3間1尺
■角櫓……………4間×2間4尺
■中櫓……………3間×3間3尺
■南多聞先櫓……3間1尺×2間4尺
■出櫓……………3間1尺×2間5尺
■二重櫓…………3間3尺×2間2尺
■巽櫓……………3間1尺×2間4尺
■平櫓……………2間4尺×2間1尺
■一文字門続櫓…3間1尺×1丈

となっており、4間×3間~3間×2間半前後が村上城の標準的な櫓のサイズだったことがわかる。さすがに8間×7間といった櫓が立ち並ぶ幕府普請の大城郭とは比べるべくもないが、10万石程度の大名の居城としては、まあ標準的なサイズの櫓が立ち並んでいたようである。

なお、この時点で焼失してしまっていた本丸の隅櫓群(「正保の城絵図」の配置に従えば天守以外に5棟)も、現状遺構や他の櫓のサイズから判断すると、4間×3間ほどの規模だったと見て良いだろう。

正保の城絵図

■正保の城絵図

山頂に関わらず、村上城には多数の櫓が上げられていた。[国立公文書館所蔵]

※1)村上城の建物を実測した記録として現在に伝わる唯一のもの。ただし、寛文年間に焼失してしまった天守と本丸の隅櫓群については記載がない。

※2)『村上御城廓』が記された時点で残存していたにも関わらず、鐘櫓については、なぜか基壇の石垣部の測量値しか記されていない。

「重箱櫓」が大半を占めた村上城の櫓

だが、『村上御城廓』からはもう一点興味深いことがわかる。それは、各櫓の2階のサイズである。上に示した櫓のうち、二重櫓は全部で10棟を数えるが、『村上御城郭』には、なんとそのうちの6棟について「上重太サ同断」と注記を加えているのだ。すなわち、これらの櫓は1階と2階が同じ大きさだったのである。

記載が抜けている鐘櫓や、『村上御城廓』が記された時点で焼失していた本丸の櫓群についてもほぼ同様の構造であったことは想像に難くない。とすれば、村上城には、1・2階が同大の特異なスタイルの二重櫓が、少なくとも10棟程度は立ち並んでいたことになる!

このような櫓を俗に「重箱櫓」と呼ぶ。高崎城乾櫓(3間×2間半)などがその典型例として知られているが、1、2階が同じサイズのこの手の櫓は、どうも日本人の美的感性に合わなかったらしい。そのため、重箱櫓が築かれるのは、ごく例外的なケースに限られ、この手の櫓を1棟も有しなかった城さえ珍しくはない。ましてや、櫓のほとんどを重箱櫓で固めた城となると、かなり類例は限られるであろう。

城郭建築の「奇道」を選んだと言っても過言ではない村上城。そこには何らかの意図があったのだろうか?

巽櫓3Dイメージ

■靱櫓、玉櫓

両櫓とも1階、2階が同大の「重箱櫓」

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