ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
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御殿徹底研究(3)

古式ゆかしき部屋配置

空間利用率・部屋割りの分析から、村上城の御殿が「権威主義的」な建造物であったことが見えてきたが、どうやらその姿勢は各殿舎の間取りにまで徹底されていたようだ。ここでは、城内で最も格式が高い「大広間(村上城)」「大書院(新発田城)」の間取りからその点を明らかにしたい。

筆者の計算によると、村上城大広間のサイズは東西15間に南北10間ほどである。これだけでも十分威圧的な建物であるが、注目すべきは部屋の並び方である。すなわち、新発田城など、江戸後期型の御殿では直列に並んでいる部屋が、村上城においては矩折れに並んでいるのだ(右図)。

こうした空間構成は、江戸城や二条城など、江戸初期の大規模御殿に好んで導入された古式な形態である。建物が巨大化してしまうデメリットはあるものの、視覚的に主君と家臣の距離を示す上で効果的である。

また、村上城大広間の平面図を見ると、雨戸を格納する戸袋と、建物外周の柱の位置が少々変わっていることに気付く。すなわち、多くの城は、廊下と落縁(縁側)の間に柱と雨戸を立てる(=縁側は吹きさらし)のに対し、村上城大広間は落縁の外周に沿って柱と雨戸を立てていた(=縁側も室内に取り込む)らしいのだ。

この形式も実は、聚楽第、仙台城大広間、篠山城大書院、熊本城本丸大広間等に類例が見られる古式な手法である。村上城の御殿はある意味復古調だったのだ。

村上城・新発田城 大広間の平面比較

※もっとも、冬季の降雪に対する備えとする考え方もなくはない。

室内のしつらえ

最後に室内の意匠がどのようになっていたのか検討してみたい。村上城御殿の内装関係については、ごく断片的な資料しか残らないので、ここでは同時代の御殿建築を参考に推定(妄想?)してみたい。

床材:殿舎のほとんど、廊下に到るまで畳敷きであったと思われる。廊下と言っても幅が1間半や2間幅に達する箇所も多く、実際には「控えの間」的に使用された部分も多かっただろう。

天井:謁見などで使用される部屋については、書院建築のスタンダードである格天井だったと思われる。特に藩主の座る上段の間は、格式の高い折上格天井(※)が用いられていたであろう。二条城などでは華麗な天井画が見られるが、これは寛永年間(1626年)以前の建物には見られないとのことなので、1620年ごろに造営された村上城には見られなかったはずだ。

障壁画:江戸中期以降になると、幕府の倹約令の徹底で派手な障壁画は少なくなってくるが(※)、江戸初期に建造された村上城ではそれなりに派手な絵画が用いられたのではあるまいか。二条城や江戸城では、長押と天井の間にも絵を描くが、これは寛永年間以降に登場した幕府限定の意匠らしい。よって、村上城では長押の上は白壁のままであったと思われる。

装飾具:村上城とほぼ同時代1610年代に造営された名古屋城本丸御殿では、まだ大々的な漆塗りの仕様は見られない。当地が漆器の産地であることから考えると意外な感じもするが、おそらく村上城も、天井の木組みや框などは素木のままであったと思われる。また、金箔障壁画の類も、大床や帳台構えなどには施されていたのではあるまいか。

以上の想定から大広間「上段の間」付近を再現したのが以下の3DCGである。障壁画や欄間彫刻の図柄は適当だが、江戸末期に建てられた川越城や掛川城の御殿よりは、かなり派手だったと思われる。なお、画面手前の部屋境には襖か障子戸があったと考えられるが、ここでは視覚効果を考えて省略した。

村上城 大広間復元CG

※折上格天井

格子を組んだ格天井を中央部に向かって盛り上げる形の天井で、断面は凸型となる。主君の専用スペース「上段の間」などに使用は限られる。なお、将軍家専用の意匠として、天井を二重に織り上げた「二重折上格」というものもあり、二条城に現物が残されている

掛川城二ノ丸御殿

■幕末の御殿の例

幕末の安政2年(1855年)より建築がスタートした掛川城二ノ丸御殿。障壁画はなく、飾り金具も控えめ。天井の意匠や部屋割りも略式化されている。

御殿の顛末

村上城の御殿は、その後、城の主が変わりつつも、明治元年までなんとか命脈を保っていた。しかし、もともとが10万石~15万石の経済規模に即した建物だっだけに、後に村上藩が5万石に減封されてからは、相当維持に苦労したようだ。御殿の改廃に関わる記録を下表にまとめたが、間部家や内藤家が入封した1700年代頃から、次第に維持が難しくなっていった様子が見て取れる。

    
城主 出来事
1598-1618年頃 村上頼勝 9万石。中世城郭「本庄城」の根小屋を、近世的「御殿」に改修しはじめる。
「臥牛山城を造功し 其身は麓の塞に居り」
1618~42年頃 堀直竒 10万石。特に表向きの建物の平面は古式なので、この頃までに主要殿舎は揃ったと考えられる。
「御本城、二の丸、三の丸造、但又石垣・櫓・塀門・堀・百閒蔵並び侍屋敷数多出来」
1649~67年 松平直矩 15万石。城の大改修と合わせ、御殿の規模を拡大する。
「寛文元年丑年より同五年巳年まで 天守本丸小書院造営
二ノ御丸御居宅御本城リ袖スリ御塀、折廻四拾七間三尺 大和守様御代ニ出来申候」
1667~1704年 榊原氏 15万石。
「式部様御代 二の丸御殿 元禄十丑春より普請始る」
1704~1709年 本多氏 15万石→5万石。改築記録不明。ただし、大減封直後に転封されたため目立った工事は行わなかったものと思われる。
1710~1717年 松平輝貞 7.2万石。御殿の増改築記録ははっきりしないが、後任の間部家の記録を見る限り、管理はあまり行き届かなかった模様。
「本丸櫓橋修造」(刎橋門のことか?)
1717-20年 間部詮房 5万石。応急処置を施しつつ、なんとか15万石相当の御殿の規模を保つ。
「二ノ丸御殿の壁剥落、屋根も水腐れのため軒先が落ちる」
「村上住居繪図」この頃に成立?
1720年 内藤弌信 5万石。以後幕末までの約150年を内藤氏が統治。
「越後村上城居城分間図」この頃成立?
1747年 内藤信興 「城内地震の間を壊ち跡は太守学問所に相成」
「寛保年中城内地震の間を壊つ」
「内藤侯居城全図」この頃成立?
1778年 内藤信凭 「安永七年戌年三月光徳寺より出火にて 御居城三重櫓・月見櫓・刎橋御門三ケ所類焼」
1830
-44年
内藤信親 寺町・長法寺の本堂建築に際し、居館を解体・再建した際の部材の払い下げを受けたとの言い伝えあり。
1868年 内藤信民 戊辰戦争に際し自焼

(※)

「村上城主歴代譜」「村上御城廓」「間部家国元日記(仮題)等より

「内藤侯居城全圖」(1747~1778年頃?)は、このような縮小期の御殿の様子を記した絵図と考えられる。先に示した「村上住居繪図」「越後村上城居城分間図」段階と比べると、主に奥向きの建物群の撤去が進んでおり、総面積は2/3程度にまで縮小している。その一方で、儀礼向きの「表」の建物はほぼそのまま維持されており、規模は縮小したとはいえ、この期に及んでも、村上城の御殿が格式の維持を第一義としていたことが読み取れる。この辺りは三河以来の譜代である内藤家の家風を示すようで興味深い。

最終的にこの御殿にとどめを刺したのは、戊辰戦争であった。新政府軍が目前に迫る慶応4年(1868年)8月11日、御殿は抗戦派の藩士の手によって自焼させられたと伝えられる。「武士は食わねど高楊枝」とばかりに、ひたすら古式や格式の維持にこだわった構造を持った村上城の御殿。旧制度と運命をともにしたのは、なにやら暗示的なように思えてならない。

(初稿:2005.02.01/2稿:2005.02.04/3稿:2007.11.10/4稿:2017.07.23/5稿:2017.07.23/最終更新:2021年09月17日)

「たまり」と化した上段の間

■内藤侯居城全圖

最盛期の状況を示した「村上住居繪図」「越後村上城居城分間図」と比較すると、居住スペースである「奥」の建物群を中心に、撤去が進んだことがわかる。(村上市教育委員会「史跡村上城跡整備基本計画 資料編」より)

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