他の諸都市の人口
では、最盛期で約18,000人という村上城下の人口規模は、県内の他都市と比べた場合にどの程度のものなのだろう? そこで、各市町村史や『新潟県史』を参考に、越後の主要都市の人口を可能な限り算出してみた。
1)新発田(溝口氏 6万石→10万石)
6万石で入封した溝口氏が幕末まで統治。平野部を領地としたことから新田開発が盛んに行われ、幕末には10万石に高直しを受けている。現在は村上をはるかに超える約10万人都市。
江戸期の人口変遷は、『新発田市史』『新潟県史』等から右のように推計される。町方人口と武家人口の調査年次がなかなか揃わないが、1700年ごろの人口は8,000人程度と思われる。減封や移封がなかった上、後背地が開発に有利な地形であったため、人口は幕末まで順調に増加したようだ。おそらく幕末時の人口は1万~1万2、3千人といったところであろう。1870年の武家人口が異常に多いのは、維新後に江戸詰めの藩士が引き上げてきたためと思われる。
2)村松(堀氏 3万石)
村上の堀家から分藩してできた3万石の城下町。幕末まで堀家が3万石のまま統治した。
右に示したのは『村松町史』に示された戸数の変遷である。村上の場合と同様、1世帯あたり平均5名とすると、元禄期の人口は2,740名、ほぼ100年後の宝暦年間には4650程度、幕末には6-7,000人程度に増加したと見られる。
3)長岡(堀氏 8万石→7.4万石)
村上に来る前に堀直竒が8万石の経済規模をもって築いた城下町。堀氏が村上に移ると、代わって牧野氏が7万4千石で入封し、幕末まで続いた。戊辰戦争、太平洋戦争の空襲で壊滅的な被害を受けるもその都度復興。現在は人口27万を擁する新潟県第二の都市である。
江戸期の人口推移を見ると、元禄年間の約12,000人が、幕末には16,000人まで増加している。新発田、村松と同様に、政治的に安定していたことが奏功したのだろう。
4)高田(松平氏 75→10→25.9→26→10.3→6.8→11.3→15万石)
1614年、家康の6男、松平忠輝が75万石の城下として築いた町。城の建設は伊達政宗を総奉行に天下普請で行われ、本来ならば「越後国府」となるはずの町だった。しかし、家康の勘気を買って忠輝が改易されると、酒井(10万石)、松平(26万石)、稲葉(10万石)、戸田(6.8万石)、松平(11.3万石)、榊原(15万石)と藩主が相次いで入れ替わり、藩領も激変した。
町民人口は比較的記録がよく残るが、武家人口については村上と同様、判然としない。そこで、例によって家臣団総数=戸数とみなし、人口を推計すると、右表のような値を得た。開府当初は4~5万人の人口規模を計算していたと思われるが、幕末には2万5千人程度となっていた。村上以上に盛衰が極端な町である。
5)新潟
現在は政令指定都市となり、80万の人口を擁する県都・新潟市。本格的な町割りは、寛永期の堀直竒の普請だと言われている。人口集中が進むのは 北前船が盛んに行き来するようになる1700年代。安政の開港後はさらに人口集中が加速した。幕末には27,930人と高田を抜き、越後最大の都市となった。
6)その他の港町・在郷町
江戸時代の越後では港町や在郷町などの発展も著しかった。記録が前後するが、1680年の直江津が2,937人、1705年の柏崎が5,758人、1735年の岩船が3,661人との記録が残る。
また、佐渡金山で栄えた相川も、寛永年間には3万人以上を数えたらしい。1694年の時点では14,812人の記録が残る。人口の推移が追える三条については、右図に示した。(なお、三条は村上藩の飛び地領で藩の役所が置かれた地でもある)
以上をまとめたのが下のグラフである。どうやら、1680~1710年ごろのごく限られた期間、村上が「越後第二の都市」であったことは間違いないようである。「最大瞬間風速」みたいなものではあるがーーー。
新発田の人口推移 |
年 | 町方人口 | 武家人口 |
1700 | | 4,494 |
1707 | 3,769 | |
1711 | 3,982 | |
1716 | | 6,121 |
1761 | 4,088 | |
1802 | | 7,145 |
1835 | 7,625 | |
1850 | 6,614 | |
1861 | | 5,401 |
1870 | | 10,468 |
『新潟県史 通史4』575頁
『新発田市史』547頁。開府から幕末に向け、順調に人口が増加したようだ。
村松の人口推移 |
年 | 町方戸数 | 藩士戸数 |
1688 | 208 | 340 |
1757 | 303 | 459 |
1789 | 349 | 581 |
1856 | | 554 |
幕末期 | | 787 |
1870 | | 824 |
明治初年 | 775 | |
『村松町史』625、627頁
大まかに推定すると、幕末の人口は6~7千人か?
長岡の人口推移 |
年 | 総戸数 | 人口 |
1694 | 2,490 | 12,450 |
1712 | 2,638 | 13,190 |
1818 | 2,947 | 14,765 |
1870 | 3,450 | 16,460 |
『新潟県史 通史4』575頁、『長岡市史』432頁。総戸数は武家屋敷、町屋の合計
高田の人口推移 |
年 | 町方人口 | 武家人口 |
1681 | 21,567 | 13,290 |
1698 | 17,307 | 7,500 |
1701 | 17,429 | 5,000 |
1703 | 16,328 | 5,000 |
1722 | 17,000 | 7,500 |
1741 | 16,687 | 8,525 |
1843 | 17,906 | 8,525 |
1869 | 20,461 | |
『新潟県史 通史4』578頁。武家人口の不明分は、村上藩の家臣団規模から推定した。
新潟の人口推移 |
年 | 戸数 | 人口 |
1656 | 1,011 | 5,000 |
1697 | 2,859 | 13,200 |
1710 | 2,931 | 16,000 |
1859 | 6,183 | 27,930 |
『新潟市史』241頁
三条の人口推移 |
年 | 戸数 | 人口 |
1761 | 870 | 4,516 |
1823 | 1,142 | 6,553 |
1838 | 1,262 | 6,982 |
『新潟県史 通史4』625頁。記録に残る戸数は、順に544、714、789軒となっているが、実数はその1.6倍ほどあったことが寛政7年の記録から読み取れる。よって、戸数、人口ともに、記載値に1.6を乗算した。