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大都市だった? 村上城下(1)

「越後随一の規模」はホンモノか?

人口約6.2万人。まさに「地方小都市です!」といった佇まいの現在の村上市。右に示したのは、2017年1月現在の新潟県の市町村別人口ランキングだが、村上市のポジションは上から数えて8番目である。まあ、このランクにしても「平成の大合併」という荒業のおかげで、合併直前の村上市は、人口3万をまさに切らんかという小都市であった。

だが、少なくとも江戸時代の前半まで、村上は越後有数の大都市であった。以下は村上城下が最大規模に拡大していた時期の3DCG図であるが、当時の人口は新潟を凌駕し、街区の広がりにおいても、新発田や長岡を上回っていたのだ。

最大規模に拡大していた時期の村上城下全景3DCG

…っと言ってもあまり信じてもらえそうにないので、今回は、新潟県内の各都市、および、全国の諸都市との比較から、往時の村上城下の規模を明らかにする。比較の観点は人口、および都市面積である。

新潟県の人口ランキング
新潟市 800,112
長岡市 274,977
上越市 196,956
三条市 100,069
新発田市 99,700
柏崎市 86,359
燕市 81,192
村上市 62,638
南魚沼市 58,303
10 佐渡市 57,470

2017年1月1日現在。新潟県「住民基本台帳に基づく市町村別人口、世帯数」より。

村上城下の人口推移

まず、村上城下の人口の推移を明らかにしておきたい。ここでは『越後村上城下町 伝統的建造物郡保存対策調査報告書』に記されたデータに、筆者の推計を加えて当時の人口を算出した。(※1)

開府から約100年の間、村上城下の人口は順調に増加したようである。15万石時代の末期にあたる1700年ごろには、現在の中心市街地人口(※2)に匹敵する人口18,000人近くまで、人口が増えていた公算が高い。

しかし、1707年に本多家が15万石から5万石に減封されると状況が一変。一気に人口10000人を割るところまで衰退してしまう。家中のリストラが引き金となり、武家人口の激減→購買力の減退→商人・職人層の減少…といった悪循環が起きたのであろう。

その後は幕末に少し持ち直すものの、かつての規模を取り戻すことはなかった。幕末時の人口は1万人前後と推定される。

江戸時代 村上城下の人口推移

(※1)

江戸時代の人口統計は、町人のみを対象とすることが多く、武家人口については不明なケースも多い。そこで今回は便宜的に、分限帳等に記された家臣の人数を戸数とみなし、それに江戸期の平均的な家族数「5」を乗算した値を武家人口と見なした。正確な家臣団数がわからない堀氏、松平氏時代については、榊原氏の家臣数をもとに推計した。

(※2)

2005年3月末の人口集中地区(DID)人口は18179人。ただし、江戸期の村上城下の範囲は、現在のDID指定区域よりもはるかに狭い。

他の諸都市の人口

では、最盛期で約18,000人という村上城下の人口規模は、県内の他都市と比べた場合にどの程度のものなのだろう? そこで、各市町村史や『新潟県史』を参考に、越後の主要都市の人口を可能な限り算出してみた。

1)新発田(溝口氏 6万石→10万石)
6万石で入封した溝口氏が幕末まで統治。平野部を領地としたことから新田開発が盛んに行われ、幕末には10万石に高直しを受けている。現在は村上をはるかに超える約10万人都市。
江戸期の人口変遷は、『新発田市史』『新潟県史』等から右のように推計される。町方人口と武家人口の調査年次がなかなか揃わないが、1700年ごろの人口は8,000人程度と思われる。減封や移封がなかった上、後背地が開発に有利な地形であったため、人口は幕末まで順調に増加したようだ。おそらく幕末時の人口は1万~1万2、3千人といったところであろう。1870年の武家人口が異常に多いのは、維新後に江戸詰めの藩士が引き上げてきたためと思われる。

2)村松(堀氏 3万石)
村上の堀家から分藩してできた3万石の城下町。幕末まで堀家が3万石のまま統治した。
右に示したのは『村松町史』に示された戸数の変遷である。村上の場合と同様、1世帯あたり平均5名とすると、元禄期の人口は2,740名、ほぼ100年後の宝暦年間には4650程度、幕末には6-7,000人程度に増加したと見られる。

3)長岡(堀氏 8万石→7.4万石)
村上に来る前に堀直竒が8万石の経済規模をもって築いた城下町。堀氏が村上に移ると、代わって牧野氏が7万4千石で入封し、幕末まで続いた。戊辰戦争、太平洋戦争の空襲で壊滅的な被害を受けるもその都度復興。現在は人口27万を擁する新潟県第二の都市である。
江戸期の人口推移を見ると、元禄年間の約12,000人が、幕末には16,000人まで増加している。新発田、村松と同様に、政治的に安定していたことが奏功したのだろう。

4)高田(松平氏 75→10→25.9→26→10.3→6.8→11.3→15万石)
1614年、家康の6男、松平忠輝が75万石の城下として築いた町。城の建設は伊達政宗を総奉行に天下普請で行われ、本来ならば「越後国府」となるはずの町だった。しかし、家康の勘気を買って忠輝が改易されると、酒井(10万石)、松平(26万石)、稲葉(10万石)、戸田(6.8万石)、松平(11.3万石)、榊原(15万石)と藩主が相次いで入れ替わり、藩領も激変した。
町民人口は比較的記録がよく残るが、武家人口については村上と同様、判然としない。そこで、例によって家臣団総数=戸数とみなし、人口を推計すると、右表のような値を得た。開府当初は4~5万人の人口規模を計算していたと思われるが、幕末には2万5千人程度となっていた。村上以上に盛衰が極端な町である。

5)新潟
現在は政令指定都市となり、80万の人口を擁する県都・新潟市。本格的な町割りは、寛永期の堀直竒の普請だと言われている。人口集中が進むのは 北前船が盛んに行き来するようになる1700年代。安政の開港後はさらに人口集中が加速した。幕末には27,930人と高田を抜き、越後最大の都市となった。

6)その他の港町・在郷町
江戸時代の越後では港町や在郷町などの発展も著しかった。記録が前後するが、1680年の直江津が2,937人、1705年の柏崎が5,758人、1735年の岩船が3,661人との記録が残る。
また、佐渡金山で栄えた相川も、寛永年間には3万人以上を数えたらしい。1694年の時点では14,812人の記録が残る。人口の推移が追える三条については、右図に示した。(なお、三条は村上藩の飛び地領で藩の役所が置かれた地でもある)

以上をまとめたのが下のグラフである。どうやら、1680~1710年ごろのごく限られた期間、村上が「越後第二の都市」であったことは間違いないようである。「最大瞬間風速」みたいなものではあるがーーー。

江戸時代 越後諸都市の人口グラフ
新発田の人口推移
町方人口 武家人口
1700 4,494
1707 3,769
1711 3,982
1716 6,121
1761 4,088
1802 7,145
1835 7,625
1850 6,614
1861 5,401
1870 10,468

『新潟県史 通史4』575頁
『新発田市史』547頁。開府から幕末に向け、順調に人口が増加したようだ。

村松の人口推移
町方戸数 藩士戸数
1688 208 340
1757 303 459
1789 349 581
1856 554
幕末期 787
1870 824
明治初年 775

『村松町史』625、627頁
大まかに推定すると、幕末の人口は6~7千人か?

長岡の人口推移
総戸数 人口
1694 2,490 12,450
1712 2,638 13,190
1818 2,947 14,765
1870 3,450 16,460

『新潟県史 通史4』575頁、『長岡市史』432頁。総戸数は武家屋敷、町屋の合計

高田の人口推移
町方人口 武家人口
1681 21,567 13,290
1698 17,307 7,500
1701 17,429 5,000
1703 16,328 5,000
1722 17,000 7,500
1741 16,687 8,525
1843 17,906 8,525
1869 20,461

『新潟県史 通史4』578頁。武家人口の不明分は、村上藩の家臣団規模から推定した。

新潟の人口推移
戸数 人口
1656 1,011 5,000
1697 2,859 13,200
1710 2,931 16,000
1859 6,183 27,930

『新潟市史』241頁

三条の人口推移
戸数 人口
1761 870 4,516
1823 1,142 6,553
1838 1,262 6,982

『新潟県史 通史4』625頁。記録に残る戸数は、順に544、714、789軒となっているが、実数はその1.6倍ほどあったことが寛政7年の記録から読み取れる。よって、戸数、人口ともに、記載値に1.6を乗算した。

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