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大都市だった? 村上城下(2)

同一縮尺で見る江戸時代の越後の都市

では次に、都市面積を比べてみよう。手っ取り早く比べるために、ここでは各種資料から復元した1700年ごろの越後各地の都市域を、同一縮尺で示してみた。

人口規模と同様、ここでも高田>村上>新潟>長岡>新発田>村松、という序列を認めることができる。現在では村上の5倍近くの人口を抱える長岡も、この時点では村上より小さな町だったのである。

一方、村上・長岡・新発田・村松の関係に着目すると、藩主の石高と町の人口・規模の大小にかなりの相関が認められる(右図参照)。城下に集住する家臣団の数が、大名の石高にほぼ比例するためである。

そう考えると、高田の人口規模と町の巨大さが不釣合いな理由も見えてくる。高田はもともと「越後国府」75万石を想定した城下町。本来の人口キャパシティは、3~4万人で計算されていたと思われる。1700年の時点では稲葉氏10万石の城下となっていたが、巨大な城下町をもてあまし気味であったことは想像に難くない。面積に比して人口が少ないのはそのためだろう。

江戸時代 越後諸都市の規模
人口と石高の相関

■人口と石高の相関

瞬間最大風速的に村上が越後第二の都市だった時代の状況。高田を異常値として除外すると、10000石=1000人くらいの比例関係が成り立つ??

全国ではどうだったか?

さらに考察を進め、全国規模で村上城下のポジションを見てみよう。

まともな人口統計が少ないため、確定的なことが言いづらいが、江戸時代は現代よりも都市への人口集中が緩やかで、城下町の人口比率は藩の全人口の10%程度あった(※)。そのため、三都(江戸・京都・大阪)をのぞくと、10万人を超えるような都市は金沢・名古屋くらいのもので、数万人もいれば「大都市」であった。

全国的な趨勢をおおざっぱに捉えるならば、国持ち大名クラスの城下町で人口3、4万、村上を含む10万石クラスの城下町で1万~2万人台、10万石以下では1万人前後…といったあたりが、江戸時代の城下町の標準的な規模となる。

下図は、1700年ごろの全国の代表的な城下町と越後の諸都市を同一縮尺で並べてみたものだ。江戸、大阪といった巨大都市を別とすれば、意外なほと都市規模の格差が小さいことがわかる。村上城下の規模は、鶴岡や姫路、ここには示していないが川越などと同クラスに相当する。

江戸時代 全国の都市規模比較
江戸時代・全国各地の都市人口

■1700年ごろの町方人口

竹内誠監修『一目でわかる江戸時代』(小学館 2004)より。城下町の場合は、上記に武家人口が加算される。

(※)

西村睦男「藩領人口と城下町人口」(1980.12)などによる。

歴史に「if」は禁物だが…

以上から、少なくとも江戸時代の前半のある時期、村上が越後第二の都市であり、全国的に見ても「中の上」くらいの規模を有していたことは明らかである。少なくとも現在の「村上市」よりも、都市としてのポジションは上だったであろう。

ちなみに、明治19年の全国人口ランク(※)よれば、人口40,777人の新潟が18位、24,571人の高田が38位、16,152人の長岡は67位にランクされている。仮に村上藩が15万石のまま存続し、人口1万台後半を維持できていたとすれば、50位くらいにつけていた公算が高い。

歴史に「if」は禁物だが、村上のその後の歩み…否、新潟県の近代史は、随分違っていたのではあるまいか。

初稿:2007.12.25/2稿:2008.05.09/最終更新:2017年07月23日

(※)

「明治大正国勢要覧」による。

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