城山北東端部に突出する大きな尾根は、通称「天神平」と呼ばれている。現地に残る多数の遺構から、中世本庄城の一部であったことは確実であるが、近世になると放棄され、もとの山林へと還っていたようだ。
遺構としては、尾根上の広い平坦面と、周囲を取り巻く帯曲輪、及び尾根の南側に切り込む「大沢」沿いの段郭群から成る。投入された作事量はかなりのものだが、曲輪配置はただ「階段状に並べた」といった感じでまとまりに欠け、有機的な曲輪間の連結は図られていない。同じ中世期の遺構とは言え、「中世期遺構群」で紹介した東南麓の遺構群よりはかなり古い段階のものではなかろうか。
一方、山頂の玉櫓下から伸びる大規模な竪堀が、天神平の上端部に連結されている。この竪堀は竪土塁を伴う厳重なもので、その造作は「中世期遺構群」で紹介した東北麓の竪堀に極めて近い。おそらく、天神平の防備を補強すべく、戦国末期に付け加えられたもののように思う。
なお、「天神平」という名称は、中世まで天神社が祀られていたことに由来する。宝暦2年に編纂された「村上寺社旧例記」によれば、もともとは城山の地主神を祀る社殿があったようだが、近世初頭の村上氏による城普請・町づくりに伴い、鬼門封じのために新町の青木門付近に移動させられたという。
さて、技術的には古風ながら、相応の防御を施した天神平。立地から判断すると、山頂へ向かって「大沢」伝いに進入する敵兵に側射を加えることを狙っていたと思われる。ほとんどの曲輪が大沢方向に向けて築かれているのは、まさにその証左であろう。
しかし、肝心の大沢の地形が、上記のような想定と一致しない。というのも、幅広で傾斜が比較的緩いにも関わらず、大沢の谷口には、敵の侵入を防ぐための防御施設が全くと言っていいほど存在しないのだ。これでは敵は容易に谷口に侵入し、山頂近くまで達してしまうだろう。同じような地形の「中の沢」沿いが、厳重な防御を施した登城ルートとして整備されている(※)のとは全く対照的である。
このルートに対する無頓着さが何に起因するのか…今後の研究課題である。
(初稿:2005.05.27/2稿:2017.07.23)
削平レベルはかなり高く、広さ自体も50m×20m程はある。小社くらいは十分に建ちそうだ。
尾根の先端は一段下がった10m四方ほどの小郭となる。地山を掘り残した土塁が北側に突き出す。
小さな尾根を削平した、馬蹄形の段郭が連なる。技巧的な様子は伺えず古臭い造作を感じさせる。