中世「本庄城」の姿とは?(1)
戦国時代の村上城=「本庄城」
近世村上城の起源は、中世城郭・「本庄城」に遡る。その名の通り、国人領主・本庄氏が築いた中世城郭で、当地域の拠点城郭として、戦国期には幾多の争乱の舞台となってきた。16世紀初頭には既に築城されていたと見られ、史料上には「村上ようがい」や「瀬浪の城」という呼称も確認できる。江戸時代になると主要部は近世城郭「村上城」として大改修を受けたが、それを免れた中世期由来の遺構は、臥牛山東側斜面を中心に良好に残存している(中世期遺構群、天神平、八幡山遺構群などを参照)
当サイト的には、なんとかこの本庄城段階の姿をビジュアライズしたいわけであるが、これが甚だ困難である。江戸期の近世城郭化によって多くの遺構が改変されている上、信頼できる資料が非常に限られるためである。
そんな中、極めて重要なヒントを与えてくれるのが米沢市上杉博物館所蔵の「瀬波郡絵図(※)」である。同図は慶長年間の当地方の様子を詳細に記した大判の絵図であるが、その中心部に現在の村上市街の前身となる「村上町」と「村上ようがい」を大きく描いている。その描写は個々の建物や曲輪配置に至るまで具体的であり、中世城郭の姿を描いた同時代資料としては、全国的にも第一級の価値を持つものだ。中世期の城の姿を考察する上で、本庄城は他城にはない大きなアドバンテージを持っているといえよう。
■瀬波郡絵図(部分)
慶長年間に豊臣政権が提出を命じた国絵図の写しと考えられている。「頚城郡絵図」とともに、中世城郭を描いたほとんど唯一の史料で、本庄城=村上ようがいの姿が詳細に描かれている。(米沢市上杉博物館蔵「越後国瀬波郡絵図」)