武具蔵跡
■DATA
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藪化度:-
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四ツ門北側には、山頂部で最大の削平地である旧「三之丸」(※1)が広がっている。天守へ向かうルートから外れるため現在は訪れる人も少ないが、往時はその面積を生かし、大型の蔵3棟とそれらを監視する番所を備えた、いわば「倉庫区画」として機能していた。曲輪両隅を固める「靱櫓」「玉櫓」も、その名称から判断して、かなり倉庫的な性格の強い建物であったろう。1711年(正徳元年)に記された実測記録「村上御城廓」には各建物の平面規模が以下のように記されている。
・附渡リ御武具土蔵、弐間五尺ニ拾九間壱尺
・次御土蔵、四間二尺、拾四間
・同次曲リ作リ御土蔵、四間壱尺ニ弐拾間壱尺
・同所御番所、壱丈ニ三間壱尺
収納品については断片的な記録によるほかないが、足軽に貸し付けるための具足類(附渡り武具)(※2)、堀家が大阪の陣で分捕った太刀や弓矢、さらには、長さ二間ほどの船が天井から吊るされていた(※3)という話が伝えられている。また、松平直矩の時代に城の木型(今でいう模型)が作られ、代々城の附渡り品とされていた…との話もあるが、ひょっとするとそうした品も、この蔵で保管されていたのかもしれない。行方が非常に気になるところだが、残念ながら現在もその所在は不明である。
現状「三ノ丸」と呼ばれることの多い本区画であるが、実は時代によりその呼称は安定していない。元和~寛永期は「宇佐美丸」、正保期には「三ノ丸」、幕末期には「調練場」等と呼ばれていようである。
「村上城主歴代譜」松平右京大夫輝貞の時代に「城山堀丹州より城附渡りの具足百頒俄に緘し直し修覆」との記載あり。
大滝雪邨「郷土随聞鈔(二)」『郷土村上第12号』(1975.12.01)。
礎石等が残らないため、各建物の正確な位置は不明である。また、軍事構造物と見做されなかったためか、ほとんどの城絵図がこれらの蔵を描いていない。蔵を描いた数少ない絵図である享保年間の城絵図を参考にすると、蔵の配置は右図のようになる。長大な建造物を収めるのに、建物を「くの字」型にしたり、建物同士のクリアランスをギリギリまで詰めたりと、なかなか配置に苦心したことがうかがわれる。
現代の後知恵的には、このような配置よりは、最初から塁線上に並べて多聞櫓兼用にしてしまえば良さそうに思えるが、その程度のことは江戸時代の人間も思いついたであろう。塁線際の2棟については築城時からあったのではなく、後補的に増築されたものなのかもしれない。
時代が下った明治元年の絵図には、蔵は1棟(附渡リ武具蔵)だけが残った状態で描かれている。老朽化によるものか。藩財政の逼迫によるものか、残り2棟の蔵と番所は撤去されてしまったようだ。古い時代の城絵図には見られない「調練場」との文字が記されていることから、撤去の背景には、この曲輪自体の用途変更があったのかもしれない。
(最終更新:2018年08月05日)
「村上御城廓」の記載値をもとにサイズを割り出して並べてみると、かなりギリギリの配置であったようだ。ここまでクリアランスを詰めるなら、いっそのこと塁線際に寄せて多聞櫓にしてしまったほうが防御上もよかったろうに…と思うのは筆者だけであろうか。。。