村上城と聞くと、いわゆる「山城」のイメージを強く持つ方も多いかもしれないが、江戸期の城域は周辺の平地をも広く取り込んだものだった。現在の村上旧市街の半分程度(二之町、三之町、新町、堀片、杉原、石原一帯)は、堀と土塁で囲郭された「城内」に相当し、正徳元年(1711年)の実測記録である『村上御城郭』によれば、城下を囲郭する土塁の総延長は6000間(約12㎞)に及んでいたという。まさに城塞都市の名に恥じない総構えが、現在の市街地にはめぐらされていたわけである。
しかし、それらの防御構造物も明治以降は次々と撤去され、2020年現在、残存する土塁は、上の写真で示した藤基神社裏手のごく一部のみとなっている(※)。長年の浸食で傾斜はかなりなだらかになっているが、神社の敷地西側に沿って約100mに渡って堤防状の土盛りが確認できる。高さそのものは各種古記録に記された「高2間」程度を維持しているようだ。
なお、見学の際は税務署脇にある細いコンクリート舗装の通路(暗渠)上を進むことになるが、これはかつての堀跡である。
青が堀、黒が土塁、囲んだ部分が残存部。通りから奥まった位置にあるので見つけにくい。 (国土地理院「標準地図」を筆者加工)
本来この土塁は、三ノ丸の南を扼する飯野門に接続していた。しかし、現在その位置には村上税務署が建ち、土塁も敷地境で切断される形となっている。なお、土塁の反対側は羽黒門まで伸びており、一部の城絵図には屈曲部に3棟の隅櫓を備えていた様子が描かれている。三ノ丸南端を扼す都合上、相応の防御が成されていたと言えよう。現在の税務署が建てられたのは昭和40年代のことである。それ以前は現在の南線道路に接する位置まで土塁が残っていたそうだ。なんとも勿体無いことをしたものである。
だが、不幸中の幸いというべきか、切断された土塁の断面を、税務署の駐車場側から観察することができるようになった(汗)。左下の写真がそれだが、結構な高さと幅があることを実感できる。
にしても、これほどの土塁を、城下周囲に延々10キロ以上も築き上げた先人には、まったく持って恐れ入るほかない。人海戦術おそるべしである。。。
(初稿:2003.11.21/2稿:2017.07.23/最終更新:2020年06月24日)
宝永~享保あたりの城絵図には、土塁上に3棟の隅櫓を描くものがある。土塁そのものが失われた現在となっては存在自体がイマイチはっきりしないのではあるが。。。(村上市所蔵「享保7年越後國村上城絵図」/新発田市立歴史図書館所蔵「越後村上城下絵図」など)
税務署の駐車場は周囲よりもかさ上げされているため、実際の土塁高はもう1mほどある。左手に見えるヨド○ウ物置と大きさを比較したい。
周辺には土塁と接続していた飯野門の転用石材らしきモノが散見される。こちらのお宅ではかつての石積みをそのまま塀の基壇にしているように見えるが???
内藤家開祖信成公を祀った藤基神社。敷地西側に沿って土塁が残るが、実は境内全域が村上城の史跡指定範囲である。なお、村上城の「御城印」の頒布も同神社で行っている。