村上城下の三ノ丸(※)にはかつて、北から順に山辺里門、大手門、飯野門の3つの大型門が構えられていた。中でも飯野門は、米沢街道経由で南から村上城下に入った旅人が、一番先に目にする門であり、村上城総構部の南の玄関口としての役割を果たしていたと見ていいだろう。明治元年に描かれた「村上城城門絵図」(右)には、門に接続する長大な多聞櫓と、さらにその先に続く二重櫓の姿が活写されている。町屋の軒より高い二重櫓を築くことで、町民に対する示威効果を発揮せんとしたことは明白である。復元CGも作成してみたが、長大な多聞櫓×二重櫓の威圧効果を実感できる。
さて、肝心の遺構であるが都市計画道路南線が門の直上を通過したため、門遺構はことごとく破壊された。跡地には村上市が設置した「飯野門跡」の看板が立っているのみである。
(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
このように、飯野門の遺構はことごとく失われてしまったように見えるが、周辺にはどうもその石垣を転用したと思しき石段やら石垣が散見される。藤本神社に隣接する御宅の屋敷囲いの基壇、南線道路から少し路地を入った、古峯神社裏手の石積み、藤基神社入り口付近の石垣などである。
「谷積み」に改変されている箇所や、目地にコンクリが流されているところは明治以降の積み直しであること可能性が高いが、一部には、江戸期と同じ工法の「整層積み」かつ空積みの箇所も残っている。決定打には欠けるものの、明治元年の「村上城城門絵図」の描写と整合する箇所もあることから、一部は江戸期の石垣の最下段付近を、そのまま残したもののように思えてならない。
(初稿:2003.12.16/最終更新:2017年07月23日)
南線道路の開通によって遺構は失われた。(国土地理院「標準地図」を筆者加工)
コンクリートで目地がふさがれてはいるものの、谷積みで積まれた明治期遺構の石垣とは違った表情を見せる。
3段程度の石垣ながら、使っている石材は大振りであるし、江戸期の技法と同じ「整層積み」かつ「空積み」。どうにも気にかかる。
飯野門に接続していた土塁(「村上城城門絵図」右手の土塁)は、わずかではあるが残存する。詳しくは外郭土塁跡をどうぞ。