現在は閑静な住宅地となっている新町一帯は、堀と土塁で囲郭された武家屋敷街「新町曲輪」の跡地である。往時、町の出入口には4つの城門が設けられていたが、その中で一番西側の角地を占めていたのが袋門(堀片門)である。現在、地表面に目立った遺構は残されていないが、阿部写真館前のT字路に、門跡を示す標柱がひっそりと建てられている。
明治元年に描かれた「村上城城門絵図」によると、門は前方に枡形空間を備えた櫓門で、その規模は「村上御城廓」により2間半×4間であったことが判明する。また、2間半×8間の多聞櫓も付随していたらしく、新町曲輪に構えられた他の3つの城門(秋葉門、青木門、耕林寺門)よりは、若干リッチな造りであった。曲輪の角地という重要性に鑑み、相応の配慮が成されたのであろう。築造年代ははっきりしないが、1620年代の堀氏による築造と見て良さそうである。
門本体にL字型に多聞櫓が接続する構造である。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
前述のように、門に関連する遺構は、現在まったく残されていない。しかし、周辺の地割自体は旧規をよくとどめており、道路形態や水路にかつての姿を偲ぶことはできよう。特に、道沿いに走る2本の細い水路(暗渠化されている部分もあるが)は、それぞれ堀跡のラインをそのまま踏襲しており、この門が2つの堀の結節点に位置していたことがよく分かる。もうちょっと堀跡であることを視覚的に示せるような修景を施せば、結構良い景観になるのではなかろうか。
なお、現地に行くと分かるが、この門から西へ向かう街路はわずかに上り坂となっている。「村上城城門絵図」には、門手前の土橋がある種の「堰」として機能していた様子が描かれているが、このような工夫があったからこそ、堀の水位は維持できていたわけである。
(最終更新:2019年08月15日)
周辺の道路や水路形状は、わりかし旧規を残している。(上:国土地理院「地理院地図」に筆者加筆/下:村上市「内藤侯治城明治維新時代村上地図」)