現在、東北電力の変電施設が建つ山麓居館の北側の一帯は、「岩手郭」あるいは「伊白丸」と呼ばれた曲輪の跡地である。周囲を掘や城山で囲まれた袋小路のような区画で、右図に示したように、出入り口は「岩手郭入口御門」一か所のみ。山麓居館に入る動線からは完全に切り離されていた。
山麓居館の側面防御が直接的な存在理由であろうが、このような閉鎖性の高い構造に着目するならば、下渡門が突破された際の「武者隠し」ないしは「隠し曲輪」的な機能も意図していたと筆者は考える。実際、そうした運用思想を反映したのか否かは定かではないが(?)、これだけの広さがありながら、江戸期を通じてほとんど空き地状態であったことは確かである。
「岩手郭入口御門」を唯一の出入り口とする「袋小路」状の空間であった。
一見、地味な遺構に見える岩手郭跡であるが、松平直矩が在城した寛文年間のみは例外である。というのも、彼の継室・お長の方(のち丁と改名)が暮らす御殿が、この期間に営まれていたからだ。
お長の方は、京都の名門貴族、東園大納言家の出身である。村上に連れてくるお供の数も相当なものだったろうし、何より公家の姫君を迎えるにあたり、それにふさわしいしつらえの新御殿が必要だったのだろう。「松平大和守日記」には断片的ながら記録が残り、「常盤屋」「藤之茶屋」といった数奇屋風の建物があったほか、庭園の築山からは滝がかかり、池には船が浮かべてあったことなどが記されている。また、庭に植える樹木や庭石の収集にも相当な力の入れようだったらしく、形のよい松を城山から下ろして移植したり、家臣から梅や桜の銘木が献上されたことなどが記されている。(※1)
絵図や指図の類が残らないので、「岩手郭入口御門」の幅が2間だったこと(※2)以外、建物の位置・構造についてはまるで不明である。ただし、記録が示すように権威性よりは遊興性を重視した作りであったことは確かである。武家風の豪壮な意匠というよりは、都の趣味を反映した瀟洒なつくりの御殿だったのではなかろうか。
華美を誇った岩手郭の御殿も、松平氏の転封とともにわずか数年で解体されてしまったらしい。銘木珍石の類も、転封先の姫路に残らず移設してしまったらしく(※)、次の榊原氏時代の城絵図では早くも空地として描かれている。
おそらく、その後は空き地化したまま明治に至ったと考えられるが、松平氏の転封から60年ほど時代が下った1722年の「享保7年越後國村上城絵図」には、なぜか岩手郭手前に土塁と柵(?)で区画された桝形状の構造が確認できる。防御というよりは、刎橋門経由で山麓居館と連絡するルートを遮蔽するための施設と思われるが、御殿が取り払われた後もこうした構造が残っていたのか、あるいは何らかの理由で後代に付加されたのか、興味深いところだ。
現在残る遺構は、下渡門下から続く曲輪北側を画する堀跡くらいのものである。御殿の礎石の類でも発掘できれば良いのだが、おそらく、変電施設の建設時に地下遺構は攪乱されているはずだ。はるばる京都からやってきた大納言家の姫君がどのような生活を送っていたのか…。今では想像するよりほかにない。
(初稿:2007.05.02/2稿:2017.07.23/最終更新:2018年03月12日)
刎橋門と岩手郭入口御門をまとめて囲う桝形状の構造が確認できる。(村上市所蔵「享保7年越後國村上城絵図」)
左手が山麓居館跡、右手が岩手郭跡。河岸段丘を利用し4~5mほどの高低差を稼いでいる。
東北電力変電所の周囲に、鍵の手に堀跡地形が残る。かなり埋没してはいるが。。。
堀跡と痕跡地形は割と明瞭に残っている。(出展:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)