多くの城跡と同様、ここ村上城にも抜け穴伝説が残っている。「本庄繁長が使っていた」「戊辰戦争時にも使われた」etc.の話が、地元では未だに語られているが、それらが風化せずに伝えられてきた背景には、伝説の根拠となる遺構(?)が残存していることが大きい。「抜け穴の出口」と伝えられる洞穴がそれである。
場所は山麓居館跡から北に2、300mほど、山裾を巡る小道を進んだ臥牛山北麓にある。山腹の岩盤に2つの洞穴が並んで空いており、人工的に掘られた穴であることは間違いなさそうだ。残念ながらどちらの穴も、入り口から4,5m入ったあたりで、崩落のためか行き止まりとなっているようである。
なお、この穴については、抜け穴説のほか、藩政期の何らかの貯蔵施設の跡であるとする説や、堀の用水確保のために掘られた横井戸の痕跡、あるいは、太平洋戦争中に地下軍需工場を作るための試掘坑である…といった説(※)などもあるが、はっきりしたことはイマイチ不明である。
(国土地理院「地理院地図」に加筆)
横井戸説をとるものとして、大瀧雪邨「郷土随聞鈔」『郷土村上』(1973.08)が挙げられる。また、戦時中の試掘坑説の出所としては、終戦間際に村上に疎開してきていた東芝電器が、割と本気で臥牛山地下への工場移転を計画していたことが挙げられよう(『村上市史 通史編3』P.343)。
さて、抜け穴である以上、出口があれば入口もあるはずである。実は入口についても伝承があり、それによれば、臥牛山頂、本丸冠木門桝形にある丹後石こそ、抜け穴の入口なのだという。 丹後石とは、冠木門枡形に位置する、いわゆる「鏡石」(※)であるが、長軸2.7mを測るこの巨石を、果たしてどのように動かしたのか、伝説は教えてくれない。
2017年現在、村上市ではこの丹後石がはまっている本丸石垣に関しても、修復・積み直しを検討しているようである。そのうちこの石の周辺でも発掘調査が行われるはずなので、ひょっとすると近い将来、抜け穴発見の大ニュースが報じられる日がやってくる……わけないか。
(初稿:2004.01.28/2稿:2017.07.23/最終更新:2020年06月16日)
本丸冠木門枡形内にはめられたいわゆる「鏡石」。どうやって動かすのかは不明(笑)
・「抜け穴の出口は羽黒口の光徳寺である」
・「戊辰戦争時に居館を焼き払った兵士が抜け穴に逃れ、無事に生還した」
・「山中の井戸の中には抜け穴になっているものもある」
・「本庄繁長が永禄年間に上杉謙信と戦った際、ゲリラ戦に使用した」
等々、ハンパにもっともらしいのがこれらの伝説の面白いところである。光徳寺説は中世期の城道の記憶が誤伝したとも考えられるが、とりあえず筆者が知る限り最も壮大な(?)伝説は、古道サイト「越の山路」の作者であるshinさんが、お祖父様から聞いたという以下のものである。
・「抜け穴は臥牛山山頂から諸常寺山につながっていた」
・「↑というわけで、諸常寺山を掘ると刀やら鎧がざくざく出てくる」
この説が当たっていたとしたら、抜け穴の総延長が優に5㎞近くになることだけは間違いない…。(位置は右図を参照)