村上城は黒い城?(2)
江戸初期は「黒い城」だった!?
「白い城」で一件落着か…と思いきや、文書資料をつぶさに見ると、村上城が「黒い城」だった可能性を示す記録が存在するのである。近世村上城の基礎を築いた堀直竒が、普請奉行の堀主膳に宛てた書状に、以下のような記述が存在する。(※)
一 城中之壁、東の方はぬりおゝいに可仕由、先日被申越候、ふかしからさる儀候間、城中の壁不残板おゝいの用意可然候事
一 板過分に入る可申候間、おか引共無油断様、細工被申付候事
一 板過分に入る可申候間、おか引共無油断様、細工被申付候事
現代語に訳せば、「先日、城の東側の城壁を塗り込めにするよう提案があったが、それでは不具合があろう。城中の壁は残らず板で覆うこと。板が過分に必要になるだろうから、大鋸引きには油断なく加工するよう申し伝えておけ」といったところであろう。すなわち、記載が本当ならば、堀直竒が築いた江戸初期(元和期の村上城は板張りの「黒い城」だった、ということになる。
とういうわけで、出櫓付近を「黒い城」説に基づいて再現してみたのが以下の画像である。細部意匠などはテキトーなので目をつぶって見て頂きたいが、見慣れた塗り込めの再現画像よりは、かなり無骨なイメージだったかもしれない。
(※)
「元和6年3月28日 堀直竒より堀主膳宛書状」新潟大学所蔵『堀家文書』より(「史跡 村上城跡保存整備計画 資料編」所収)