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村上城は黒い城?(3)

仮説:後代に「白い城」に改築された?

…というわけで、堀直竒の言いつけを家臣が忠実に守っていたならば、1620年代ごろの村上城は板張りの「黒い城」だったということになる。では、仮にそうだったとして、後代の城絵図の多くが、村上城を「白い城」として描いているのはどういうわけだろうか。素直に考えれば、後代の城主が、板張りをやめ、漆喰塗籠に改造した…ということになろう。堀氏の後に藩主となったのは以下の2名である。

1)本多忠義
堀家の断絶後、村上藩領は一時的に幕府領となるが、その後に10万石をもって入封。いわゆる「やばい大名」の典型例のような人であったらしく、いわれもなく町人を手打ちにしたり、苦しい家計を考えずに贅沢三昧の生活を送ったりしていたようだ。城郭の普請に関する記録ははっきりしないが、ハデ好きの彼のことだ。「いまどき板張りなんてダセーよ」とばかりに、壁を総塗り込めにしてしまった可能性はなくもない…気がする。ちなみに、白壁を示した最古の絵画資料である『正保の絵図』は、彼の時代に幕府に提出されている(※2)。

2)松平直矩
本多氏の後に15万石をもって入封し、村上城の大改修を行った記録が明確に残る。彼が1660年代に行った大改修以降、村上城には大規模な改築が加えられた形跡はないので、明治期の絵図に描かれた塗り込めの壁は、このときの建築意匠が受け継がれたものということになる。



(※1)

村上の次に移った陸奥白川では、「苛斂誅求の大名」と呼ばれ、その人物像が次のように伝えられているという。 「忠義は文武を知らず、利欲有ありて(中略)民を貪り佞曲にして行跡不義(中略)家人を召し使うこと無理非道、或いは改易、或いは殺害すること数を知らず。故に侍うとむこと甚だし」(村上市『村上市史 通史編2』 74頁)
…いったいどんな奴じゃ?

(※2)

断定しきれない理由としては、『正保の城絵図』がたまに間違っていることがあげられる。例えば「黒い城」の代表格である岡山城は、『正保の城絵図』では「白い城」に描かれている。

「徳川の城」を示すために進められた「白い城」化?

両名のどちらが手掛けたにせよ、単に「見栄えをよくするため」に壁を白くした…というわけではないと筆者は思う。というのも、西ケ谷恭弘氏が指摘するように(※3)「徳川系の城はシロ、織豊系の城はクロを主体とする多色」という構図が、幕藩体制の確立にともなって次第に明確になってきたからである。

事実、豊臣恩顧の大名たちが「黒い城」を好んで築いたのに対し、徳川家はあてつけのように各地に「白い城」を建設した。本拠地江戸城はもちろんのこと、名古屋城、二条城などをことごとく塗り込めで築き、極めつけには、黒漆塗りであった豊臣期大阪城を徹底的に破壊した上に、白亜の「徳川」大阪城を築いている。「白い城」はまさに、幕藩体制の頂点に君臨する、徳川家支配のシンボルだったのだ。

というわけで徳川系大名である本田氏にせよ松平氏にせよ、是が非でも「徳川の城=白い城」を建てたかったはずだ。城郭が「権力の示威装置」であることについては多くの論者が指摘しているが、村上城にもまた、「徳川の支配を視覚的に表象する装置」としての役割が期待されたのであろう。外様大名・堀氏が仮に「黒い城」を築いていたとするならば、それを「白い城」に建て直すことは、単なる外壁の変更を超えた、高度に政治的な行為であったはずだ。

以上、村上城=「黒い城」説について考えてみたのだが、これについても決定的な証拠は見つかっていない。堀直竒の言いつけを家臣がスルーし、最初から「白い城」として建設されたということも十分ありうる話である。また、寛文期以降の城絵図の中に、板張りっぽい外壁を描いたものがないわけでもない(右参照)。一旦は「白い城」化したものの、耐久性を重視して板張りが後補されたのか、あるいは絵図の描写そのおのの信頼性がどうか…といった点からして、イマイチ不明である。

むしろ、我々がここで意識せねばならないのは「壁材が何か?」というごく基本的なことさえ、現状ではよくわかっていないという事実だ。CGやらVRで、仮想的な復元を行うことに筆者が意味を見出すのは、まさにこうした点に負っている。

※本稿を最初に書いたのは2003年のことでしたが、2017年現在では「徳川系の城=城/豊臣系の城=黒」という図式に対しては、否定的な見方が主流のようです(逆パターンも実際には多いため)。本稿については期を改めて修正したいと思います。(2017.07.23)

(初稿:2003.11.29/2稿:2004.07.26/3稿:2017.07.23/最終更新:2018年08月21日)

(※3)

西ケ谷恭弘「『白いお城』と『黒いお城』はなぜできたか?」(『歴史街道』平成9年4月号 PHP研究所)

小田原城

■「白い城」の小田原城

徳川系の大名が築いた城は、漆喰で塗り込められるようになった。

小田原城

■板張外壁の享保期の城絵図

1720年代ごろの状況を描いた絵図。櫓の壁面の窓から下は羽目板張りっぽい描写である。(新発田市立歴史図書館蔵)

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