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堀氏時代の村上城(2)

塁線形状は不変でも、建物が変わった本丸

まずは本丸の形状から見ていきたい。「元和~寛永の城絵図」「正保の城絵図」ともに、ほぼ現状遺構に順ずる塁線形状を描いている(右図参照)。従って、堀氏-松平氏段階を通じて、塁線形状は大きく変更されなかった公算が高い。また、正保図の建物描写を見てみると、天守以下5棟の二重櫓の間には塀の描写が一切見られず、すべて多聞櫓で接続していたようである。村上市が作成した松平氏段階の復元案とは微妙に建物位置が異なるが、おおむね以下のCG図のような構造だったと見てよいだろう。

なお、ここで気になるのが「村上雑記」の「城山地形三尺下ル」という一文だが、、、

・塁線形状が変わっていないのに、石垣の高さだけを切り下げたとは考えにくい
・正保図の注記「石垣高4間」と、現状遺構の石垣高(7.82m)がほぼ等しい
・「城山地形」とあるものの、「本丸地形」と限定をかけているわけではない

ことから、地形の切り下げが行われたのは、後述の御鐘門付近と見るほうが妥当ではないかと考える。よって、CG図の石垣高は現状に準じた。

村上城 本丸新旧比較3DCG
村上城 新旧塁線比較

■塁線形状比較

『元和~寛永の城絵図』『正保の城絵図』ともに、現状とほぼ同じ塁線形状を描く。

村上城 冠木門近くの石垣

■本丸冠木門付近の石垣

堀氏時代に築造された石垣は部分的にでも残っているのだろうか?

東側帯曲輪群の放棄と埋門の改造

現在の臥牛山の東側斜面には、数段の大規模な帯曲輪が残存している。これらは中世期「本庄城」の遺構と推測されるが、『元和~寛永の城絵図』『正保の城絵図』には、これらの塁線際を巡る二重の塀が描かれている。近世初頭の堀氏の段階では、旧「本庄城」の縄張りを一部再利用して、東側斜面の備えにしていたわけだ。

ところが、松平氏の入封以降に描かれた絵図では、東側斜面の帯曲輪や塀が一切見られなくなる。また、1711年に記された実測記録『村上御城』にも、東側斜面の塀は登場しない。史料の制約から正確な年代は特定できないが、松平氏時代の縄張り変更と見るのが最も合理的であろう。

一方、これと合わせて注目されるのは、帯曲輪群と本丸をつなぐ「埋門」の構造の変化である。堀氏段階の『正保の城絵図』では櫓門として描かれた埋門が、松平氏の入封以降、塀の下に空けた簡易な門(正真正銘の埋門!)に変わってしまうのだ。

一見、絵図の描写の問題にも思われるが、これも、帯曲輪群の撤去と合わせて考えれば説明がつく。すなわち、下位の曲輪群を失い、通路としての機能が必要なくなった埋門は、もはや櫓門である必然性がなくなってしまったのだ。だからこそ埋門は、常用を前提としない門形式に改造されてしまったのであろう。

村上城 放棄された帯曲輪

■撤去された帯曲輪群

上は堀氏時代の状況を示したと推定される『元和~寛永の城絵図』。下は『明治維新時地図』。

明治維新時地図

■櫓門として描かれた埋門

帯曲輪群の有無と門形態には関連があったはずだ。

御鐘門の新造と仮称・二ノ丸多聞櫓群の撤去

『正保の城絵図』を見るとわかるが、堀氏段階の村上城では、四ツ門から黒門までは、長大な一つの曲輪でつながっていた(右図参照)。現在は、二ノ丸中央部に御鐘門が存在するので、二ノ丸は南北に二分されている。

一方、同図には、後代の村上城には見られない建物も描かれている。二ノ丸西側塁線沿いに延びる多聞櫓群がそれだ。少なくとも2箇所の二重櫓化された部分があったようで、斜面を登ってくる敵兵に対して強固な防御線となっていた。これらの建物は、御鐘門の新造と合わせて撤去されてしまったようである。

なお、絵図からは、郭内の削平が全般的に甘かったことも読み取れる。現在は緩やかな坂道となっている四ツ門~御鐘門の間に、石垣作りの小郭が見られる。縄張りの必然性から生じたものというよりは、地山の高低差を段階的に処理するためのものであろう。おそらく堀氏の築城以前の同位置には、地山の小さなピークか、もしくは急崖が存在し、大型の平櫓がその頂部に位置していたと推定される。(「村上雑記」が記す「城山三尺下ル」はこの部分を削り落したことを差しているのではなかろうか)

以上のような考察を踏まえると、堀氏時代の二ノ丸塁線は、下図のような景観をしていたであろう。

村上城 二ノ丸塁線の変遷
村上城 仮称・二ノ丸多聞櫓群

■堀氏時代の二ノ丸

御鐘門はまだ建てられておらず、曲輪の西側塁線には多聞櫓群が並び立つ。

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