堀氏時代の村上城(3)
二ノ丸「上通り道」と「下通り道」の分化
現在の二ノ丸中央部には、曲輪を東西に二分する高さ4mほどの段差が存在する。この段差は、明らかに人工的に造成された切岸であり、段差をはさんで高い側を「上通り道」、低い側を「下通り道」に分割している。
ところが、堀氏時代の『元和の城絵図』や『正保の城絵図』には、なぜかこの段差が描かれていない(右図参照)。「上通り道」と「下通り道」の区分も描かれておらず、二ノ丸全体が一つの大きな曲輪としてとらえられている。もしこれが本当なら、堀氏時代の二ノ丸は、今以上に平坦で巨大な曲輪であったことになろう。
だが、文献資料を紐解くと、絵図には描かれなかったものの、地形的な段差そのものは当時から存在したらしいことがわかる。例えば『松平直矩日記』に登場するある藩士は「絵図と実際の石垣の様子が異なる部分があった」と述べている(※)。おそらく、前後の文章の状況から見て二ノ丸のことであろう。堀氏時代の絵図が段差を描いていないのは、「段差があっても、曲輪内が一体的に使われていたこと」を表現するためだったのだろう。
以上のような想定を踏まえると、堀氏時代の二の丸は、下図のような構造だったと思われる。中央部の段差が曲輪の分割線とは意識されていないので、城内の動線はかなり錯綜していたと見られる。「上通り道」と「下通り道」が、それぞれ「表口」と「裏口」に機能分化した松平氏段階とは、かなり様相を異にしていたであろう。
■段差を描かない『正保の城絵図』(上)
段差をきちんと描いた『明治維新地図』(下)とは対照的。
(※)
『松平大和守日記』寛文3年7月9日に「巳ノ刻城山へ小川原武太夫・根村源兵衛 是ハ初テ見物 蟹江三郎兵衛供ニ連登ル 是ハ少石垣ノ様子絵図ニ替りたる所有之由 小川原武太夫言ニ付也…」という記述が見られる。[村上市企画調整課『お城山とその周辺整備計画 資料編』所収]