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中世「本庄城」の姿とは?(2)

主な先行研究

では早速、代表的な先行研究を見てみよう。瀬波郡絵図をもとに中世・本庄城の姿を考察する試みは、古くは1970年代初頭の小村弌氏の論考(※)に遡るが、現存遺構との具体的な対比が論じられるようになったのは、遺構調査が進みだした1990年代の後半あたりからである。管見ではあるが、これまでに以下3説が公に発表されているようだ。

1)大家健氏(1997)

『図説中世の越後』(1998 野島出版)にて示されたもので、瀬波郡絵図に描かれた村上ようがいと村上町は、実際とは表裏を逆に描いているとする。確かにこのような解釈であれば、起伏に富んだ絵図の山腹描写は、東側斜面の様子をよく表していると解釈できる。

現存遺構との対応関係は右のように説明されている。A郭、B郭は、冒頭で示した筆者の見解より若干広く、本丸~二ノ丸にかけての範囲。問題のC郭とE郭は、それぞれ東腰郭群と鉄砲倉に比定されている。結果、その間の谷筋を通る「城道い」は田口城道に相当し、このあたりの相互関係は絵図が「城の表裏を逆に描いた」とすればほぼ整合する。少なくとも城の南半分に関してはそれほど無理な解釈はなさそうである。

ただ、「表裏を逆に描いた」範囲を、城下域にまで拡大した結果、城の東側、および北半分についてはかなり無理のある推定となってしまっている。田口曲輪を中世村上町の跡とするのは、絵図の広域描写に照らして明らかに誤りであるし、それに引きずられて郭Fを天神平に、「城道あ」を、田口曲輪最上部から天神平への道にあてはめているのも強引な操作であろう。着眼点はともかくとして、郭、地形の対応関係については疑問の多い説と言わざるを得まい。



小村弌「村上城の成立について」『郷土村上』第3号(村上郷土研究グループ 1971.10)

本庄城 中世期帯曲輪

■大家(1997)による郭配置

城の南半分は絵図ともよく一致すると思うが、「城道あ」の位置や、村上町を田口曲輪跡に比定するのには無理があろう。

2)小島道裕氏(2000)

当時、国立歴史民俗博物館助教授であった小島道裕氏が、「村上城の中世と近世」『天下統一と城』(2000 読売新聞社)にて示した説。村上在住の郷土史家・田中真吾氏が私家本「村上ようがい」で示した見解をヒントに、瀬波郡絵図の「村上ようがい」は「いわゆる『多視点画』であって、決して一方向からのみ描いた近代的な鳥瞰図ではない」(p.189)との前提に立つ。実際、瀬波郡絵図には、集落の位置や家屋の向きなどに多視点描写が多数用いられているので、その発想自体は突飛なものではない。

村上ようがいの具体的な解釈においては、城道「い」を東腰郭群から続く竪土塁=東城道に比定した点がポイントとなる。瀬波郡絵図の城道「い」は一旦右手に大きく振れて、強いタッチで描かれた八幡山の尾根をかすめてから山腹を登っているが、小島氏はこの描写を、「八幡山の尾根を越えて城山の裏側に回ったことを象徴的に示す表現」と解釈する。そして、「城道い」=東城道を登った先にあるC郭を東腰郭群(=山上居館)に、本丸入口に描かれた門を現在の埋門付近にあてはめている。東側の主要道とそれに連なる山上居館という要所を、なんとか絵図に収めようとした結果、多視点描写が用いられたというわけだ。

「多視点描写」を前提とすれば、この説はそれなりの説得力を持つ。だが筆者としては、いくつかある東側の登城道のうち、東城道を「城道い」とした理由の弱さが気にかかる。小島氏は東城道の防御性の高さに着目し「城道い」をあてはめたのだが、その根拠となったのは1997年の千田嘉博氏の踏査で「発見」された、4連続竪堀(小島論文では「畝状阻塞」と評価)であった。ところが、後述の金子拓男氏の踏査(2002)やそれに続く市教委による測量(2004)により(※)、この遺構の存在は否定され、現時点で村上市がオフィシャルに用いている縄張り図にも記されていない。「畝状阻塞によって多重防御された城道」…という解釈は成り立ちにくくなっているのだ。

千田1997と金子2002の比較図

加えて気になるのは、本説が郭Eに関する言及を欠くことである。郭Eの位置は谷底地形を通るような描写の「城道い」の位置を考察する上で重要なはずだが、本論においては特にその点には触れないまま東城道=「城道い」とやや性急に結論が出されている。田口城道や大沢沿いのルートを否定する理由が示されていないことと合わせ、気にかかる点だ。

小島説 遺構対応関係

■小島(2000)による郭配置

絵図は多視点描写によるものとし、「城道い」を東城道に当てはめている。

本庄城 竪堀

■「城道い」と比定された東城道

東麓出郭群と東帯郭群をつなぐ長大な竪堀+竪土塁で、土塁上が城道となっている。

(※)

村上市教育委員会『緊急雇用創出特別基金事業 史跡村上城跡中世遺構図作成業務委託成果物』2004.12

3)金子拓男氏(2002,2003)

「村上城跡の遺構から見た中世の村上要害」『新潟考古 13号』(2002)、「中世村上要害に関する追考」『新潟考古 14号』(2003)にて示された説である。最大の特徴は、極めて緻密な現地踏査をもとに、「瀬波郡絵図の村上ようがいの描写はあくまで鳥瞰図である」とし、多視点描写的な操作を前提とする1)、2)説を退けた点にある。また、他説に比べて絵図に描かれた城域を非常にコンパクトに見積もっているのも特徴である。すなわち、描画された山上の郭群は現在の本丸+二ノ丸+東帯郭群周辺とされ、近世の御鐘門以北の稜線上の曲輪は省略された(城郭主要部と見做されていなかった)としているのだ。(元来の本庄城が臥牛山東南麓~頂上付近を中心に築かれた城であり、現在の七曲り道は、村上町との連絡のために、後補的につけられたものであるとの推定も合わせて示されている)。

一見、かなり飛躍した論に見えるが、金子説が唱える「鳥瞰図描写」で、本当に上記のような郭配置となるのだろうか? それを検証すべく、右図のように現在の臥牛山の地形を3D化→北方2.3kmの下渡山相当の位置から俯瞰してみた(右図)。確かにこの角度から見ると、東腰郭群は瀬波郡絵図のF郭、D郭相当の位置に収まり、近世三ノ丸相当の曲輪が省略されたとすれば、位置関係に不都合はない。同様にABCE郭も、金子氏が推定した位置にあるとすれば、相対的な位置関係はおおむね絵図と一致する。

一方、現状の西側斜面上には比定が難しい「城道い」に関しては、金子氏が独自に行った現地踏査により、現在の出櫓下あたりの西側斜面に城道痕跡らしき地形を発見。逆Z字型に斜面を登る「二ツ曲り西城道」の存在を主張している。実際、筆者も何度か現地をウロついてみたが、中世城道との確信は持てないまでも、人工的な切欠きと思しき斜面や、断続的に続く踏み跡らしきものは確認できた。

鳥瞰図として絵図の読み解きが可能な本説の登場当初、筆者も大変衝撃を受けたのだが、発表から10数年を経て改めて考えると、以下の3点が気にかかる。

一つ目は、近世の御鐘門以北を放置、ないしは軽視した築城が、中世期にそもそも有り得たのかという点である。金子氏自身が踏査で明らかにしたように、御鐘門以北の斜面にも、中世由来の段郭や大規模な竪堀が残存する。これらが自然の尾根や、さして重要ではない小郭を防御するために築かれたとは考えにくく、中世期にも現在の三ノ丸や、四ツ門~御鐘門の間には何らかの郭があったと考えるほうが合理的ではなかろうか。特に近世三ノ丸相当のスペースは山頂部で最大の面積を取ることが可能であり、ここを放置していたとすれば極めて不自然な築城であるように思う。

二つ目は、仮に御鐘門以北の稜線上に主要曲輪がなかったとしても、絵図の描画に際しては結局のところ、それを「描かない」というデフォルメを必要としている点である。山体の半分近くを無きものとして描いているとすれば、本説が「奇想天外」(2002,p89)として退けた大家説や小島説のデフォルメの程度とさして変わらないような気がする。

三つ目は、「二ツ曲り西城道」仮説の評価である。実際、それらしき地形痕跡があるにはあるのだが、これを中世期の城道遺構と見るか、山仕事用の踏み跡と見るかはかなり微妙な判断となろう。臥牛山は常に人の手が入ってきた山であり、明治以降の造林を待つまでもなく、江戸時代を通じて、町民を動員した「城山御根草刈り」や、御殿の庭木や武家屋敷の材木の切り出しが行われていた(※)。ましてや二ツ曲り西城道の登り口は、江戸時代に藩の作事小屋があった場所である。山仕事用の作業道的な踏跡があったとしても不自然ではない。道路状痕跡=中世城道と見做すには、発掘調査等の追試を待つ必要があろう。

金子説 遺構対応関係

■金子(2002,03)による郭配置

瀬波郡絵図はあくまで鳥瞰図とする。そのため他説と郭配置は大きく異なる。

金子説 3Dモデルによる検証

■3Dモデルによる金子説の検証

確かに金子説のような廓配置であれば、鳥瞰図の範囲で郭相互の関係を破綻なく描くことはできる。(上:米沢市上杉博物館蔵「越後国瀬波郡絵図」に筆者加筆)

「村上町年行事所日記」等を参照のこと。

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