3)金子拓男氏(2002,2003)
「村上城跡の遺構から見た中世の村上要害」『新潟考古 13号』(2002)、「中世村上要害に関する追考」『新潟考古 14号』(2003)にて示された説である。最大の特徴は、極めて緻密な現地踏査をもとに、「瀬波郡絵図の村上ようがいの描写はあくまで鳥瞰図である」とし、多視点描写的な操作を前提とする1)、2)説を退けた点にある。また、他説に比べて絵図に描かれた城域を非常にコンパクトに見積もっているのも特徴である。すなわち、描画された山上の郭群は現在の本丸+二ノ丸+東帯郭群周辺とされ、近世の御鐘門以北の稜線上の曲輪は省略された(城郭主要部と見做されていなかった)としているのだ。(元来の本庄城が臥牛山東南麓~頂上付近を中心に築かれた城であり、現在の七曲り道は、村上町との連絡のために、後補的につけられたものであるとの推定も合わせて示されている)。
一見、かなり飛躍した論に見えるが、金子説が唱える「鳥瞰図描写」で、本当に上記のような郭配置となるのだろうか? それを検証すべく、右図のように現在の臥牛山の地形を3D化→北方2.3kmの下渡山相当の位置から俯瞰してみた(右図)。確かにこの角度から見ると、東腰郭群は瀬波郡絵図のF郭、D郭相当の位置に収まり、近世三ノ丸相当の曲輪が省略されたとすれば、位置関係に不都合はない。同様にABCE郭も、金子氏が推定した位置にあるとすれば、相対的な位置関係はおおむね絵図と一致する。
一方、現状の西側斜面上には比定が難しい「城道い」に関しては、金子氏が独自に行った現地踏査により、現在の出櫓下あたりの西側斜面に城道痕跡らしき地形を発見。逆Z字型に斜面を登る「二ツ曲り西城道」の存在を主張している。実際、筆者も何度か現地をウロついてみたが、中世城道との確信は持てないまでも、人工的な切欠きと思しき斜面や、断続的に続く踏み跡らしきものは確認できた。
鳥瞰図として絵図の読み解きが可能な本説の登場当初、筆者も大変衝撃を受けたのだが、発表から10数年を経て改めて考えると、以下の3点が気にかかる。
一つ目は、近世の御鐘門以北を放置、ないしは軽視した築城が、中世期にそもそも有り得たのかという点である。金子氏自身が踏査で明らかにしたように、御鐘門以北の斜面にも、中世由来の段郭や大規模な竪堀が残存する。これらが自然の尾根や、さして重要ではない小郭を防御するために築かれたとは考えにくく、中世期にも現在の三ノ丸や、四ツ門~御鐘門の間には何らかの郭があったと考えるほうが合理的ではなかろうか。特に近世三ノ丸相当のスペースは山頂部で最大の面積を取ることが可能であり、ここを放置していたとすれば極めて不自然な築城であるように思う。
二つ目は、仮に御鐘門以北の稜線上に主要曲輪がなかったとしても、絵図の描画に際しては結局のところ、それを「描かない」というデフォルメを必要としている点である。山体の半分近くを無きものとして描いているとすれば、本説が「奇想天外」(2002,p89)として退けた大家説や小島説のデフォルメの程度とさして変わらないような気がする。
三つ目は、「二ツ曲り西城道」仮説の評価である。実際、それらしき地形痕跡があるにはあるのだが、これを中世期の城道遺構と見るか、山仕事用の踏み跡と見るかはかなり微妙な判断となろう。臥牛山は常に人の手が入ってきた山であり、明治以降の造林を待つまでもなく、江戸時代を通じて、町民を動員した「城山御根草刈り」や、御殿の庭木や武家屋敷の材木の切り出しが行われていた(※)。ましてや二ツ曲り西城道の登り口は、江戸時代に藩の作事小屋があった場所である。山仕事用の作業道的な踏跡があったとしても不自然ではない。道路状痕跡=中世城道と見做すには、発掘調査等の追試を待つ必要があろう。
■金子(2002,03)による郭配置
瀬波郡絵図はあくまで鳥瞰図とする。そのため他説と郭配置は大きく異なる。
■3Dモデルによる金子説の検証
確かに金子説のような廓配置であれば、鳥瞰図の範囲で郭相互の関係を破綻なく描くことはできる。(上:米沢市上杉博物館蔵「越後国瀬波郡絵図」に筆者加筆)
※
「村上町年行事所日記」等を参照のこと。