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中世「本庄城」の姿とは?(3)

当サイトとしての暫定仮説

…というわけで3つの説を見てきたわけだが、批評するばかりでは能がないので、当サイトとしての見解を示しておきたい。即ち、小島説と同じく多視点描写を前提とはするが、「城道い」を東城道ではなく田口城道に比定するという見方である。郭の対応関係については右図を参照してほしい。

言いっぱなしではアレなので、一応、根拠を述べておく。城道と郭の対応関係をこのように設定すると、何よりも絵図に描かれた、郭C、E間の深い谷と、そこを通る「城道い」のフォルムが実際の地形(中ノ沢)に即したものとなる。その場合、田口城道が中世期から主要城道として機能していたことが条件となるが、実は田口城道の途中には、中世期の土塁虎口を再利用したと思しき坂口御番所の遺構が残存している。さらに、道の起点に位置し、近世には使われた痕跡がない(※1)田口曲輪最上段の郭形状に注目すると、東北隅を欠いた鬼門封じ状の造作となっている。こうした呪術的な造作が施された郭を、本庄城段階の東側の根小屋であったと見れば、根小屋と山上を結ぶ城道として、田口城道が中世期から存在していたと考えて不自然ではあるまい(金子2003では、田口城道を近世期の普請としている)。根小屋起点の城道ということであれば、竪堀上を通る軍事的な動線としての性格が強い東城道よりも、絵図に描く必然性は高かった筈である。

一方、「城道い」の山頂側の接続状況は、絵図の描写通り、現在の坂中門付近で郭E(鉄砲倉)をかすめて、現在の二ノ丸下通り道に至り、黒門付近で本丸(実城?)に達していたものと考える。これであれば、東帯郭群とみなした郭Cとの位置関係が矛盾しないし、近年の発掘調査で、下通り道の下から先行する時代の整地面が検出されていることとも符合する(※2)。近世村上城の二ノ丸は、上通り道と下通り道が並走する妙な構造になっているのだが、中世期の主要城道たる「城道い」の影響が残存した結果と見れば、それなりの説明はつくと思う。

結果、この仮説に当てはめると、東腰郭群が郭C、後代の二ノ丸が郭D、尾根上に突出した鉄砲倉が郭Eに対応する。樹木が繁茂する中に殿舎のみを描く郭Cの描写、隅櫓を配しつつ土塀を巡らせた、どちらかといえば軍事色の強い郭Dの描写、曲輪はあるが建物が描かれない郭Eの描写は、それぞれの曲輪の機能に対しても整合的だと思う。さらに言えば、西側の村上町側から見える郭B、Dに柵ではなく土塀を巡らせることは、城下に対する視覚効果を高める上でも有効であったはずだ。

当サイトの遺構対応関係仮説

■当サイトで仮定する郭配置図

なんというか極めて面白みのない推定であるが、多視点描写を前提とすれば一番素直な見方ではあると思う。

※1 近世期に使われた痕跡がない

元和・寛永~明治元年に至るいずれの城下絵図にも描かれていない。

黒門跡から検出された3層の整地層

※2 検出された中世期の整地層?

2015年、黒門跡の地下から検出された3層から成る整地層。最上層は巨礫を敷き詰めた寛文期の城道。下層の2面は、城に大改装が加えられた時期から判断すると、元和~寛永期、および中世本庄城段階と推定される。

建物配置を検討してみる

仮説をさらに敷衍し、建物の配置についても検討してみたい(もはや妄想レベルであるが…)。絵図は絵図であり全ての建物を網羅しているわけではなかろうが、城門、平櫓、二重櫓、書院造り風の殿舎が意識的に描き分けられていることから、少なくとも象徴的な建造物はしっかり描かれていると仮定する。また、壁材も狭間を切った白壁と柵列を描き分けているので、相対的な曲輪の重要度についても推察できよう。

このような細部描写をもとに、おおまかな建物位置をプロットしてみると、近世村上城との比較において興味深いことがわかる。天守を筆頭に中心部ほど建物が高層化する近世村上城に対し、本庄城においては最高所に重層建築物が見当たらない。むしろ地形的な要所にこそ、優先して重層の櫓を配していたようだ。

例えば郭Dの左端に位置する二重櫓であるが、おそらくこれは、近世村上城の二ノ丸「鐘櫓」付近と推察される。現在は二ノ丸の地表と同一平面になっているが、江戸初期の正保図段階では、周囲より一段高い石垣上に、平櫓が建つ描写となっている。また、正保図時点では櫓北側には急傾斜を段階的に処理するためと思しき小郭が築かれている。(※)このことから、本来この場所は地山のピークであり、中世本庄城段階では北側の郭との落差を段階的に処理していたと推定される。ここに二重櫓を配置したとすれば、七曲り道を管制できる位置を占め眼下の急崖に対する備えとしても合理的な選地となる。

もう一棟の二重櫓は、近世三ノ丸と比定した郭Fの奥手に位置している。おそらく近世の玉櫓付近であろう。同位置は本庄氏と絶えず抗争していた鮎川氏の治める下川郷や、上杉家の仮想敵であった北方の最上家に備える上での最適地だからである。このように、視覚的な求心性よりも純軍事的な要請を優先した建物配置もまた、中世城郭の性格を考える上で興味深い。

以上のような想定をもとに、一応の立体化を試みたのが下図である。目下、妄想レベル以上の精度はないわけだが、今後の発掘調査等の進展を踏まえ、随時アップデートしていきたい。

※今回製作した3DCGをベースに戦国期の本庄城の姿を3Dムービー化してみました。ご興味のある方はぜひご覧ください

(初稿:2019年06月15日/最終更新:2021年05月15日)

瀬波郡絵図の建物描写

■瀬波郡絵図の建物描写

案外描写は細かく、建物の用途別区分が意識されているようだ。(米沢市上杉博物館蔵「越後国瀬波郡絵図」に筆者加筆)

本庄城の建物配置(推定)

■中世本庄城の建物配置(推定)

絵図の描写をそのままプロットするとこういう配置になる…ハズ。

※ 正保図段階の構造

堀氏時代の村上城」を参照のこと。

↓↓画像をクリックすると、スマホのピンチ操作で拡大できるようになります。

北東方向から見た本庄城3DCG 北西方向から見た本庄城3DCG 南東方向から見た本庄城3DCG 本庄城3DCG。城郭主要部拡大図 瀬波郡絵図と同一視点から見た本庄城・村上町3DCG
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