残された謎=下渡山の存在を秘匿した?
以上のように、正保の城絵図の注記からは多くの情報を得ることができるのだが、どうにも解釈が難しい箇所もある。それは、堀や土塁の測量精度に比して、周辺の山々との位置関係が妙に不正確である点だ。
例えば、城山裏手にある坪根の丘陵地を指すと思しき「阿弥陀ち山」は、実際の高さの半分にも満たない「高11間」と記されている、さらに、城山から2.3kmほど北に位置し、本来は城山(135m)より約100m高いはずの下渡山(238m)に至っては、「山高5間 本丸地形ヨリ五拾壱間ヒキシ」(=山の高さ約9m、本丸地形より92m低い)と、実際とはまったくかけ離れた数値が記してある。右に示したように、絵図内の注記同士の整合性は一応取れているので、誤記(本来「高シ」とすべきところを「ヒキシ」とした/もしくは後世の誤記か?)と見るのが素直なのだろうが、筆者としては、村上藩サイドが「あえてそう記した」可能性を排除すべきではないと思う。
というのも、村上城近傍に位置し、100m近く城より高い下渡山は、村上城内の動きを監視できる絶好のポイントである。戦国期には、出城である下渡城を築いて敵の侵入を防いでいたくらいで、永禄の本庄繁長の乱では上杉方との争奪戦さえ起きている。他藩の絵図ではこういった古城跡に、律儀に「古城」と記している(※)ケースもあるが、本図にはそのような注記もない。
正保図は幕府に提出する公文書であり、藩内で複数の目を通したことが確実である。いざツッコミが入っても言いわけが立つような細工をしつつ、あえて誤記のフリをして戦略的要地を秘匿した――そんな推測は成り立たないだろうか?
絵図の制作から既に370年。今となっては、上記の想定を確かめる術はない。一級資料が残した大きな謎である。
追記(2018.01.30)
というわけで、自分としてはかなりの労力を割いて翻字した「正保の城絵図」であるが、「村上市史 絵図・地図・年表編」の付録に、読み下し文つき白地図がついているのを後日発見しました。。。とりあえず大きな間違いはなかったようで良かったです。
(初稿:2017.11.24/最終更新:2018年01月30日)
■下渡山付近拡大
238mの下渡山を「高5間」と記す。なお、絵図内では一応、次の計算式が成立しているが、本来は「高シ」ではあるあみか?
「下渡山の高さ(5間)」=「本丸の高さ(56間)」-「本丸ヨリ51間ヒキシ(51間)」
(※)
国立公文書館が公開している正保図をひと通り筆者が確認したところでは、米沢城(城西方に「古城」)、上田城(城北方に「古城」)、小田原城(尾根続きの八幡山に残る戦国期の空堀を記載)伊勢亀山城(城南方に「古城」)記載あり。