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江戸初期

村上城の歴史(江戸前期)

近世城郭への脱皮

1598年、上杉氏が会津へ移封されると、本庄氏もそれに従って村上を去る。代わって村上城主となったのは、越後一国を秀吉から任された堀秀治の与力、村上頼勝(むらかみ・よりかつ)であった。このときの石高は9万石である。

西国の進んだ城郭築造技術に通じていた村上氏は、城の改築に着手する。この時行われた工事がどの程度のものなのかは判然としないが、石垣の大々的な導入がこの時期にスタートしたことは間違いないようだ。『村上城主歴代譜』という古文書には、「坂上の門(のちの下渡門)以西を南郭となす也」「此代城内八ツ櫓建つ」「三ノ丸大手裏両新町大手筋堀出来」といった記述が見られる。平地部分に城域を拡大して「総構え」を構築する工事も、この時期に始まったと見てよいだろう。

しかし、築城工事半ばの元和元年(1615年)に頼勝は死去、息子の忠勝が跡を継ぐものの、家臣間の不和を幕府に咎められ、村上家は改易の上、丹波篠山に配流されてしまう。以降、村上城の工事は歴代城主に引き継がれていく。

元和・寛永の城絵図

■元和~寛永の城絵図(部分)

現在の御鐘門、出櫓周辺部などに差異があるものの、縄張りの基本構造はほぼ現状に準ずる。[国立公文書館所蔵]

堀直竒により成立した基本構造

村上氏の除封後、村上城には越後長岡から堀直竒(ほり・なおより)が10万石で入封する。直竒は村上氏が着手した城の工事を一層大規模に進め、早くも元和6年(1620年)には、配下の堀主膳に「本丸殿主並びにたもん角々の矢倉の作事、油断無く仕り候様、大工奉行に申し付けらるべく候」(※)と、書状で命じている。

堀氏の時代で特筆されるのは、前掲の書面からもわかる通り、村上城に初めて天守が建てられたことであろう。造営年度は1620年代と推定され、1640年代に成立した「正保の城絵図」にその姿を確認できる。ただし、この時点の縄張りを細かく見ると、現在の遺構と食い違う部分も多い。最終的に山城部の構造が定まるのは、後の松平氏の時代である。

堀氏の業績は山上城郭の修築のみではない。城下町全体を堀と土塁で囲む「総構え」を築くとともに、要所にはことごとく門を構えた。そして現在に続く城下町の町割りを定めるなど、城下町のハード的な面での完成はほぼこの時期に達成された。また、同時期には、総鎮守である羽黒神社の遷宮、それに伴う祭り(現在まで続く村上大祭)も行われるなど、文化的な面での成熟も著しかった。現在に続く城下町村上の基礎は、この時代に確定したと言ってもいいだろう。

正保の城絵図

■正保の城絵図

現在の塩町、片町、上片町などを除き、城下町の主要部分はほぼ完成。また、絵図の青い部分は堀を示し、城下全体が何重にも囲い込まれていたことが判明する。この時代の城の詳細については、「堀氏時代の村上城」を参照のこと。(国立公文書館所蔵)

(※)

新潟大学所蔵「堀家文書」より

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